僕らの昭和メモリーズ

昭和40年代生まれの人たちと一緒に、昭和という時代の中で子供時代と青春時代を過ごした思い出を共有するブログ。

『昭和の遊び(川遊び)』



【故郷の利根川】

僕が子供のころ住んでいた町は、茨城県の西のはずれにある小さな田舎町でした。

その町のすぐそばに関東地方を流れる利根川が流れていました。

利根川は坂東太郎という異名をもつ日本有数の一級河川です

 

僕の町のそばを流れていたのは利根川の中流域に位置していました。

そして、橋を渡って利根川を渡ると千葉県に入ります。

 

地元には電車が通っていません。

僕の地元の町の北方を線路が通っています。

なぜ僕の田舎の町に電車が通っていないかというと、利根川の支流である江戸川がちょうど分岐する場所にあたっていたためです。

 

その昔、線路の建設の話があったようですが、江戸川と利根川の二つの川があるため、橋を二つ架けなければならないので、僕の町の北方の古河市を線路が通ることになったのです。

 

 

【海水浴の代わり】

そんな電車も通らない田舎町でしたが、利根川という場所で僕は川遊びをしたことが何回もあります。

 

小学生のときも中学生のときも友だちと釣りをしたことがあります。

釣りだけでなく、夏場はよく川遊びをしました。

川には中洲や砂浜ができるのです。

僕は川にできた砂浜で遊びました。

 

茨城県の西のはずれに町がありますから、簡単に海へ海水浴に行くことができません。

つまり、茨城の海も千葉の海も遠いのです。

ですから、夏場は川の砂浜で海水浴気分を味わうのです。

利根川は川幅がとても大きな川ですから、砂浜もしっかりとあります。

ですからそこで海水浴のように楽しむことができるのです。

 

夏のある時、叔父と利根川に遊びにいったことがありました。

そこで深みに足を踏み外しそうになって、ものすごく怖い思いをした経験があります。

浅いと思っていたら急に直角に深みが発生していたので、すごく焦りました。

幸い深みに沈みはしなかったですが、それ以来川の怖さを忘れません。

 

それと川の砂浜って、毎年同じじゃないんです。

川というものは、なにもしなければ川岸を削っていき蛇のように蛇行していくものなのです。

そうならないためにテトラポットなどを川岸に設置して、川の地形が変わるのを防ぐわけです。

それでも砂浜の長さや幅や砂浜が現れる場所は毎年変化を見せます。

 

そして一番怖いのは川の中です。

砂浜がある近くは遠浅の海岸のように水深は浅いのです。

ですが、急に深い場所になることが多く、少し油断してしまうと深みに足を踏み外してしまいます。

 

これは川の特徴です。

川は一定方向に流れがあります。

そして、川の流れはどこも同じではないんです。

 

トムソーヤの冒険というアニメを見た人なら分かると思いますが、川を船が行くときには川底の水深と地形を把握しなくてはいけないのです。

 

川って表面上から見ても川の中の流れがなかなか把握できないのです。

つまり、川の中は流れがゆっくりのところもあれば急なところもあるのです。

川面は静かなのに川の中は激しく流れていたりするのです。

 

これが怖いのです。

 

ですから、夏場に川遊びに来て溺れてしまう事故が起きますが、それはこうした川の特性を知らないからなのです。

 

川は、ある場所で急に深くなる。

水の流れが場所によって違っている。

 

このことをよく知ったうえで川遊びをしないと、川の事故が起きます。

 

浅いと思って遊んでいたら、急に深いとことに行ってしまい、深みにはまる。

川の水は冷たいので心臓麻痺を起こすこともあります。

 

こうしたことは、なにも僕の田舎のような中流域でなくても、川幅が狭く水深が浅い上流の川でも同じです。

上流だからと安心はできません。

 

ただ、ひとつ上から川の水面をよ~く見てみると、水深の深いところは色が違っています。

どちらかと言えば濃い色をしています。

ですから浅い川だと思っても川の表面の色が変化しているようなら要注意です。

 

毎年のように川の事故が起きますが、もし、キャンプやレジャーで川に行くのなら、こうした点に注意してください。

 

 

【昭和の遊び】

昭和の子供だった僕たちは、危険な利根川でも平気で遊んでしましたが、もしかすると溺れていた可能性もあります。

 

平成が終わり令和となる今の時代では、親御さんも子供だけでは川には行かせないでしょう。

なにより、いまの子供たちは川に遊びに行こうなどと考えもしないのでしょう。

 

川遊びに限りませんが、子供の外遊びする場所がどんどん減ってきています。

その代わりレジャー施設やキャンプ場、テーマパークなどが増えています。

 

昭和の子供であった僕らは、いつも自然の中で遊んでいました。

 

実は、そうした川や森などの自然の中で子供たちだけで遊びに行くことが、僕らにとっては「冒険」のようだったんだなと思います。

あの頃の僕らが味わっていたのは、冒険の楽しみだったんです。

 

 

お読みくださり、誠にありがとうございました。

 


『茶の間の風景(テレビ)』




「茶の間」って言葉は死語ですか?

 

僕が子供の頃の茶の間の風景(テレビ)の話をしたいと思います。

 

それは昭和が終わって平成の初めの頃までのことになると思います。

 

だいたい「茶の間」っていう言葉自体が死語で、いまはほとんど使わないと思います。

だから逆に茶の間という言葉を使ったり知っていたりする人は昭和の時代を生きてきた人だと言えます。

 

僕が茨城の田舎の町で過ごした子供の頃は、どこの家も畳の部屋のほうが多かったと思います。

(都会は別として)

そんな畳の部屋に大きな箱型のテレビがデーンと置かれていました

 

いまのテレビはものすごく薄型ですが、昭和のテレビと言えば奥ゆきがあってとても重たいものでした。

あの頃のテレビはブラウン管でしたから、どうしても大きくなりがちです。

 

これは90年代のパソコンを思い出してもらえば理解できると思います。

いまのパソコンはデスクトップ型でも非常に薄い形をしていて場所を取らなくて、とても便利です。

でも、パソコンが出回った90年代はまだ奥ゆきのあるパソコンでした。

 

あの画面をもう少し大きくしたのが昭和のテレビだと思ってもらえたらいいと思います。

 

僕が小学生の頃にあった自宅のテレビにはリモコンなんてありませんでした。

テレビの前面についている回転式のレバーをガチャガチャと回すことでチャンネルを変えるのです。

ですから、4チャンから10チャンに回すためには6チャン、8チャンを経由して回さなくてはなりません。

ですから、場合によっては右か左かどちらに回した方が近いのか(早いのか)ということを

考えて回さなければならなかったのです。

 

実にめんどくさい。

 

いまやれといわれてもとても出来ませんね。

 

人間って一度便利なものに慣れてしまうと、便利以前に戻ることが出来なくなるんですよね。

 

それと、たまに画面の移りが悪くなったりするとどうするか?

嘘のようですが、「テレビを横から叩く」のです。

(マジです)

 

当時はよくコントなどで使われていたシーンです。

 

いまの人はそんなこと言われても信じないと思いますが、実際僕もやったことあります。

本当にテレビを叩くと直ったりするんですよ。

どういうことなんでしょうか?

 

ですから年寄りの人が機械を叩いていたら、昭和の名残だということです。

そういう時代を生きてきた証拠です。

 

そんな不便なテレビは一家に一台でした。

一台のテレビにしがみついて家族そろって見ていたのです。

 

それに比べて現代は、一家に数台のテレビがあっても不思議ではありません。

さらにデスクトップ型のパソコンはテレビ内臓型が多いのでパソコンでテレビ番組が見られます。

 

さらにさらに、スマホなどの携帯にもテレビ機能が搭載されていますから、いつでもどこでも見ることが出来ます。

 

昭和の時代からすると、アンビリーバボーってな感じです。

 

この変化は家族関係や社会の在り方に変化をもたらしました

 

昭和のテレビは茶の間に一台ですから、家族みんなが見られるような番組が多く作られました。

テレビ局も世代を超えて受ける(見られる)番組を製作していました。

 

ですが、テレビの台数が増え、携帯でさえもテレビ番組が見られるようになると、個人が好きな番組を見ることが出来ます。

ですから世代を超えて見られる番組が減っていきました。

 

昭和の頃のようにテレビ番組の取り合いなどの兄弟喧嘩、親子喧嘩は起こりません。

個人が見たい番組を見られます。

 

それはそれでいのですが、今思うと家族が茶の間に勢ぞろいして同じテレビ番組を見ていた風景というのもいいものだったな~と思います。

 

便利になるということは、時として人間の関係を引き離すことにもつながります。

 

茶の間って食事をしたり家族が会話をしたりする空間なんですよね。

だから見たい番組でもめることもあるかもしれませんが、それは家族がどんな番組に興味を持っているのか、タレントの誰が好きなのかを知っているということにもつながってきます。

つまり、家族のことを知ることが出来たのです。

 

いま子育てをしている親御さんに聞きたい。

あなたのお子さんが誰のファンなのか、どんなことに興味を持っているのか、知っていますか?

 

意外に知らない親御さんも多いのではないでしょうか?

 

だって、子供部屋で見ていたら分かりませんよね。

スマホで見ていたら気がつきませんよね。

それ以前にテレビ離れでネットばかり見ているほうが多いでしょう。

そうすると親子の会話の接点が見つかりません。

子供がスマホでどんなYouTubeを見ているかなんていまの親御さんは知らないでしょう。

そういう時代になったのです。

 

これを寂しいと感じるかどうか。

 

テレビの進化と普及が個人主義を加速させた。

便利なことはいいけれど、家族が一緒に同じテレビ番組を見ていた団らんの風景が懐かしいと感じるは昭和の人だと思います。

 

 

お読みくださり、誠にありがとうございました。

 


『昭和の時代のガチャガチャ』



【いまも流行るガチャガチャ】

「ガチャガチャ」って、いまでも大人気ですよね。

しかも最近のガチャガチャは値段が高い!

 

驚くことに1回1000円もするガチャガチャがあるそうです。

値段が高いからそれなりのものが入っているのかと思えば当たりとハズレではだいぶ違うようです。

 

当たりが出ると「暗証番号」が書かれた紙が出てくる、その番号を小さなロッカーに入力すると中なら景品が出てくるそうです。

その景品の中には、数万円もするようなゲーム機も入ってします。

 

でもなかなか当たらないでしょうね。

1回1000円では、何回もやったら資金が尽きてしまう。

 

これは余程運がないとだめですね。

 

 

【昭和の頃のガチャガチャ】

そこへいくと僕らが小学生の頃のガチャガチャはなんといっても安かった。

(物価の違いか?)

昭和50年代の頃のガチャガチャは1回20円でした。

(安っ!)

 

10円玉を2つ入れて、ガチャっと回す。

なにが出てくるかな~と期待する。

 

たいがい欲しい景品があって、それを当てようとしてやるんですよね。

 

でも、すぐに欲しいものが当たるとは限らないので、何回も当たるまでやってしまう。

上手く考えましたね。

単に景品(商品)を購入するのではなくて、当たるかハズレるかというスリルを味わうことが出来る。

そのスリル感と目当ての種類が見事当たったときの快感が忘れられないんですね。

(麻薬か~!)

 

僕らが必死にやっていた昭和50年代のガチャガチャの景品は、「スーパーカー」「ウルトラマン」などでした。

中でも「スーパーカー」は大人気でした。

 

男子で持っていない人がいないくらいでしたね。

「ランボルギーニ」とか「カウンタック」だとか「ポルシェ」などの高級車を小学生が欲しがるのも不思議な気がしますが、時代は景気が良かったころでしたから、大人たちの影響を受けていたのかもしれませんね。

 

とにかに「スーパーカー」と言っても数種類ありますから、種類を全部揃えたいんですね。

いわゆるコレクター魂をくすぐられるわけです。

 

 

【ガチャガチャを巡る事件】

そんなガチャガチャを巡ってあるとき事件が起きました。

 

僕が引っ越してきたのは小学校2年の頃ですが、その地域に友達がいなくて誰も遊び相手がいませんでした。

クラスメートも自宅付近にはいなかったのです。

 

ある日、僕が家のとなりの空き地でぽつんとしていたら、僕より歳下の子供がやってきました。

なにがきっかけだったかは忘れましたが、その子と仲良くなりました。

その子は僕の家の前の牛乳屋さんの次男坊だったのです。

 

ある日、僕の家で遊ぶことになって、ガチャガチャで遊んでいました。

遊び終わってその友だちが帰ろうとしたときのことです。

僕はガチャガチャを片付けようとしました。

すると、あるはずのガチャガチャの一部がないのです。

 

おかしい、と思っていろいろ探しましたが、どこにも見当たりません。

そして僕はこう思ったのです。

「この子が取ったのか」と。

 

聞いてみると「知らない」と言いました。

 

それでも状況的に見るとそれしか考えられませんでした。

何度かその友だちに聞きましたが、答えは同じで「取ってない」という返事です。

 

でも、僕は確信しました。

「こいつが取ったんだ」

 

そう確信した僕は、「じゃあ、ポケットの中を見せろ」と言いました。

友だちは始め少し嫌がる素振りを見せましたが、僕は友だちのズボンのポケットに手を突っ込みました。

すると、そこには無くなった僕のガチャガチャが何個か見つかりました。

 

僕の勘が当たりました。

でも、友だちを疑ったり、友だちに自分のものを取られることは悲しいことですよね。

 

その後、その友だちとまだ友だち関係を築いていたと思います。

やがて、成長するに従って疎遠になっていったように記憶しています。

 

ちなみに、その友だちは僕の2学年下で、同学年に僕と同じ年の子がいました。

同学年の兄のほうとは、仲良くはなりませんでした。

(顔見知りではありました)

向こうは弟の友だちと見ていたようです。

 

その体験は、幼い僕にショックを与えました。

 

仲良くしていつも遊んでいる友だちに裏切られた気持ちになりました。

 

子供って、自分が欲しいと思うと他人のモノでも取ってしまうんですよね。

赤ちゃんってそうでしょう。

 

赤ちゃん同士だとおもちゃを取り合います。

他人に譲るとか、他人のものだから我慢するという気持ちはまだ芽生えていないんですね。

 

それが、成長することで自分の所有物と他人の所有物とを明確に区別して、他人の所有物を取ることはいけないことだと学習するんですね。

 

昨今、万引きの被害が減らないそうですが、若者でも年寄りでも、そうした自分の所有物と他人の所有物との区別がつかない人たちが増えているということかもしれません。

 

他人の所有物を取ってはいけないと分かるということが人生の初期で学ぶことです。

ですから、物心がついているのに万引きしたり他人のモノを奪ったりするのは、どこかに赤ちゃんのときのような自分勝手な心のままで大きくなってしまったのでしょう。

 

それはとても悲しいことです。

 

他人の物を奪わないということは、人間にとっての初歩のはずです。

それを破る人は信頼を得られません。

 

僕の心でも、その友だちに対する信頼は少し薄らぎました。

 

子供だから仕方がないのかもしれませんけど、いい年して他人の物を取ってはだめですね。

 

 

お読みくださり、誠にありがとうございました。

 


『ツッパリ』


みなさんはツッパリという言葉を知っていますか?

 

今回は僕が中学生の頃の話です。

ですから、昭和56~58年の頃です。(19801982年)

 

「ツッパリ」=昭和の言葉ですね。

要するに、「不良」のことです。

 

えっ。

 

「不良」も知らない。

そうかもしれませんね。

 

平成の世ではツッパリとか不良とかいう言葉はあまり聞きませんでしたから。

 

ツッパリ、不良の説明

〈外見〉

・学ラン(学生服)を長いものにする。(これを長ランといいます)

・学ランの裏地に竜、虎などの刺しゅうを入れる。

・剃り込み(おでこの上の生え際をVの字に剃る)を入れる。

・学生カバンをぺったんこにする。(薄くする)

・自転車のハンドルを曲げる。

・カバンや自転車などのシールを貼る。

・がに股で歩く。

・不良少女の場合は化粧をする。

 

〈行動〉

・タバコを吸う。

・酒を飲む。

・喧嘩をする。

・先生に逆らう。

・カツアゲをする。

・勉強をしないでゲーセンなどで遊んでいる。

・とにかく校則を破る。

 

ドラマの『3年B組金八先生』をご覧になった方がいましたら、シリーズ2に登場する加藤勝という人物を思い起こしてもらえば、昭和のツッパリ(不良)というものがどんなものか具体的にイメージがわくと思います。

 

 

要するに、悪い人なんですね。

 

だから、良ではないという意味で不良と呼ばれるわけです。

 

僕らが中学生の頃になると、なぜか悪ぶっているほうがカッコいいという風潮がありました。

ツッパリってそれだと思います。

 

たしかにクソ真面目な男性よりも、ちょっと悪く見えるような男性のほうが女性にもてるとも言われます。

 

ですから、小学校のときは普通の子供だったのに、中学に入ると急にツッパリになる人がたくさんしました。

ある種の流行だったのかもしれませんね。

 

ただ、ツッパリってなんだったのかというと、結局、個性の発揮だと思います

 

同じ制服、同じ教科書、同じカバン、同じような通学自転車など集団の中で、個性を発揮することが規制されたことへの抵抗だったのだと思います。

 

小学生と中学生とで何が違うのかというと、やはり中学生って思春期に入ったということだと思います。

思春期になって自分という個性を発揮したい、自分という一個人を認めて欲しいという欲求の現れなんですね。

 

それと思春期特有の大人への反抗だと思います。

親と教師へ反抗することで、大人になったような錯覚に陥っているのだと思います。

つまり、生意気になったということです。

 

そして思春期に一番強い欲求は、異性への欲求です

早い話が、異性にモテたいのです。

 

鳥が色とりどりの派手な羽を広げて求愛ダンスをするように、男性なら強がることで女性の目を引き、女性なら化粧や他の女子と差別化する服を着ることで男性の目を引こうとする。

そんな異性への目覚めが大きな作用として働いていたと思います。

 

つまり、

個性の主張

大人への反抗

異性にモテたいという欲求

 

なんですね。

 

中学生という年頃は、大人と子供の中間のような時期で、教師からは半分大人扱いをされる一方で、親からはまだまだ子供扱いをされる。

 

そんな複雑な時期なんです。

 

それと、仲間が欲しくなるんですね。

だから、不良仲間でつるむんです。

 

それが行き過ぎると暴走族となります。

そこまで行くと犯罪行為をしてしまうことが多いです。

 

特に田舎のツッパリは、バイクを乗りまわして、集団で交通妨害や騒音妨害をして自分たちの存在をアピールします。

 

ツッパリの深層心理は、「認めて欲しい」、そんな気持ちが強く現れているのです。

 

思春期になると、異性や大人たちに認めて欲しくなるんですね。

それは、「個性」と「自分という存在」という意味を含みます。

 

子供から大人へなっていく不安定な時期特有のことです。

 

 

でも、年齢を重ねていくと、規則に逆らって生きること、大人に悪態をついて自分勝手に生きることでは、社会の中で生きることが出来ないことを理解して行くのです。

 

それが、ツッパリが大人になるときです。

 

結局、いくら大人ぶって見てもツッパってみても、駄々っ子の子供と同じなんですね。

 

ですから、20歳過ぎのツッパリ(不良)っていないですよね。

(ヤクザは別)

 

その背景には、

集団教育における若者の抵抗だったのです。

それもある意味では青春の一ページなのかもしれませんね。

 

昭和のワルは見た目で分かりますが、平成の時代は、見た目が普通なので親も教師も分かりづらくなりました。

ですから、学校でイジメが発見しづらいのだと思います。

 

悪いことをするなら、恰好もそう見えるようにしてもらいたいですね。

 

それを考えると昭和ワルは可愛げがあったかもしれません。

 

ワル(万引き、イジメなど)をしておいて、見かけは普通の学生を装おうなんて昭和の時代では考えられません。

 

ただ、変な恰好をしている若者はいつの時代もいますけど。

 

ツッパリが闊歩していた時代、それが昭和です!

 

ちなみに僕は到って真面目な中学生でしたので、あしからず!

 

 

お読みくださり、誠にありがとうございました

 


『リッチという名の飼い犬の思い出と後悔』



あなたはペットを飼っていて後悔したことはありますか?

 

 

僕が小学校二年生の春に、近所に住んでいた叔父から子犬をもらいました。

 

それは昭和で言うと51年から60年の頃の話です。

 

叔父はどこかから拾ってきたと言っていましたが、どうしてそんなことをしたのかというと、当時は考えもしませんでしたが、いま思うと叔父の気持ちがわかります。

 

昭和51年(1975年)の春、僕が小学二年生に進級したときのことです。

そのタイミングで僕ら家族は引っ越しをしました

 

同じ町の中ではあったのですが、母親が商売をする関係で大通り沿いに喫茶店を開くことになり、店舗兼自宅を新築したのです。

 

引っ越し前は長屋のような複数の店舗が連なっているところでそば屋を営む母と兄とで一緒に暮らしていました。

その近所には同世代の子供たちが住んでいて僕は近所のガキ大将でした。

(それはほとんどの子が僕より年下だったから)

すごく仲の良い同級生もいたので、引っ越すときにその近所の友だちたちとお別れすることがとても辛かったのです。

 

子供にとっては同じ町とはいえ、ものすごく遠い場所へ行ってしまうように思えたのです。

引っ越しの車に荷物を積んで出発するときに子供たちが手を振って見送ってくれました。

僕は車の窓から振り返りずっと手を振っていました。

 

引っ越した場所は知らない土地。

友だちも知り合いもいません。

にぎやかな近所の子供たちに囲まれる環境から、突然ひとりぼっちで過ごす環境になってしまったのです。

 

叔父は、僕のそんな寂しい境遇を察して、慰めるために犬を拾ってきたのだと思います。

 

その犬は雑種です。

いまは血統証付きの犬や猫をペットショップなどで購入するのが当たり前の世の中になっていますが、昭和のあのころは犬や猫はそのへんで拾ってくるものでした。

(もしかしたら僕の住んでいた場所が田舎だったからなのかもしれません)

 

当時小学二年とまだ幼かった僕はその犬がオスなのかメスなのかもわかっていませんでした。(あとでメスと判明しました)

それで名前を「ポチ」とかすごく一般的な名前にしようと考えていました。

正直、犬の名前なんて思いつきませんでした。

 

だって、それまでの僕は猫派だったのですから。

 

そこへ高校生だった兄が「リッチ」という名前がいいと勝手に主張しました。

意味は「ゆたか」とか「お金持ち」だとか言っていたように記憶しています。

 

それでその犬の名前を「リッチ」にしました。

 

僕と兄はリッチのために犬小屋を作ってあげました。

柱を組み合わせ、トタンで屋根を作り、中に布団を敷いてあげました。

ただ、壁はベニヤ板で作ったため、薄っぺらでした。

 

それが後から思うと、もう少しちゃんとした小屋を作ってあげればよかったなと後悔の元になりました。

 

でも、世話をするのは僕です。

僕の飼い犬ですから。

 

自宅兼店舗の裏側には小さな庭があってそこへ細めの鎖を二本つなげていました。

鎖二本分の長さが犬の行動範囲なので、繋がれている割には行動範囲が広かったと思います。

 

リッチは僕が学校から帰宅すると、なぜか小屋から出て、鎖をめいっぱい伸ばして帰宅する僕が見える位置にいます。

そこで一生懸命尻尾を振って喜んでいました。

「ク~ン、ク~ン」と僕を愛おしそうに鳴くのです。

 

僕はいつも思っていました。

どうして僕が帰ってくるのが分るのだろうかと。

それはとても不思議でした。

我が家の犬には超能力でもあるのかな~と思っていました。

 

昭和ということはもしかしたら関係ないのかもしれませんが、餌はご飯に味噌汁をぶっかけたものでした。

ドックフードが、どこかに売っていたのかもしれませんが、母子家庭ですから犬に贅沢はさせられません。

それでも魚や肉の骨などの夕食の残りなどがあると必ず捨てずにリッチにあげました。

するとガツガツとおいしそうに食べていました。

でも、焼き魚の骨をあげると、骨が喉に詰まるときがあって、「ガッ」と吐き出したりしていました。

 

でも、なにも夕食の残りがないときもあります。

そんなときはご飯に味噌汁をかけただけのご飯になります。

 

いまだったらおいしいドックフードをあげたのにな~と、少し胸が痛みます。

 

あまり良い食事を与えてあげなかったからなのか、どちらかというと痩せていました。

それでもたまに僕がお煎餅などを持っていくと飛びついてきます。

そしてガツガツとおいしそうに食べていました。

 

散歩はほとんどしませんでした。

そのかわり鎖を離してやるのです。

すると、ダッシュで何処かへ駆け出していきます。

 

田舎の子供だった僕は人間が決めた道を歩かせるよりも、犬が自由に好きなところに行った方が喜ぶだろうと考えていたからです。

 

現代ではとても考えられないことですね。

いまそんなことをしたら怒られるか、保健所に連れていかれるか、どちらかでしょう。

 

あの頃は自由だったのか、僕の済んでいた町が田舎だったのか。

それでも昭和の風土というものもあったのではないかと思います。

 

僕が中学生になると部活をやり始めたので小学校のときよりかまってあげる時間が少なくなりました。

いま思うともっと遊んであげれば良かったなぁと思います

 

 

そして悲しい時が突然やってきました。

それは僕が高校二年に進級するときのことです。

 

いつものように晩飯をもって庭に出ました。

(夜で庭が暗いのでいつも懐中電灯を持って餌をあげに行っていました)

普段だとご飯が食べたくてすぐに小屋から出てくるのですが、そのときは姿を見せませんでした。

おかしいな。

そう思った僕は、小屋を覗きます。

すると丸まって寝ているようでじっとしています。

「リッチどうした?」

そう呼びかける僕の声にも応えません。

 

これはただ事ではないと思って、兄を呼んで急いで動物病院に連れていきました。

(そのころ兄は社会人で車の免許を持っていた)

直ぐに診察してもらいましたが、告げられたことは残酷な言葉でした。

 

心臓に虫が入ってしまったので、安楽死させるしかないというものでした。

僕はそんなことは嫌だといったのですが、そうしないとリッチが苦しみ続けなくてはならないと言われ、仕方なく承知するしかありませんでした。

 

そして、遺体は兄が川に流そうというので利根川に行き花束と一緒に流しました。

 

九年間も一緒に暮らしていると家族です。

 

僕は流れる涙を堪えられませんでした。

 

あとあと考えると遺体を川に流すことは良くなったと思いました。

しっかりと火葬して遺骨を引き取り葬儀のようなことをしてやれば良かったと思いました。

ただ、兄とそのことについては話すことが最近あったのですが、兄もどうしていいのか分からなかったと言ってしました。

 

ペットを失った僕はペットロスの状態となり、心に悲しみを抱えたまま高校二年をむかえました。

 

いまのようにネットでいろいろなことを調べられるような時代ではなく、犬を飼ったことが初めてだったこともあり、犬の病気の知識が無かったのです。

 

僕がそのことを知っていたら、もっと長くリッチが生きられたのかと後悔しました。

 

リッチの命日は4月1日でした。

それはリッチが我が家にやってきた日と同じ4月1日でした。

 

9歳メスの雑種でした。

 

いまでもリッチのことは忘れていません。

 

もう何十年も前のことですが、毎年4月1日になると「今日はリッチの命日だな」と思い出しています。

 

また逢えるのなら僕のところに生まれ変わってきて欲しい、そう思います

 

 

お読みくださり、誠にありがとうございました。



『ぼっとん便所』



ぼっとん便所って知っていますか?


 

僕が子供の頃の便所(トイレ)の話をしたいと思います。

 

それは昭和で言うと50年代までの時期です。

 

今回はちょっと下品な話となりますので、ご注意ください。

 

僕が子供だった昭和40年代~50年代の頃の我が家のトイレはいまのような衛生的なものではありませんでした。

 

平成生まれの人は体験したことがないと思いますが、そのころの僕の家の便所(昔はトイレなんて呼ばずに便所と呼んでいた)はぼっとん便所でした。

 

ぼっとん便所」とは、いわゆる水洗式ではなく、糞尿をずっと溜めておいて、月に一度くらい業者が汲み取りにくる「汲み取り式便所」のことです。

 

汲み取るのは、業者がやりますが、そのためにはお金を払います。

汲み取ってもらうほうがお金を払うのです

 

ぼっとん便所に入って下を見ると、深い穴が開いています。

当たり前のことですが、穴が浅いとすぐにいっぱいになってしまいますから、ある程度の深さが必要です。

それに、匂いを防ぐためにも穴は深い必要があります。

 

我が家のぼっとん便所は、真っすぐに穴が開いているタイプでしたが、母親の田舎のほうにいくとぼっとん便所でも少し違います。

 

どこが違うかというと、真っすぐの穴ではなくて、中が大きく広がっているのです。

ですから、下をのぞくと奈落の底のように暗い空間が広がっているので、すごく恐怖を感じました。

同じぼっとん便所でも我が家の垂直なぼっとん便所のほうが安心してことをやれます。

 

このぼっとん便所のなにが嫌かといいうと、自分のしたものがそのまま残っていますから、あとから入ってきた人に見られてしまうのです。

逆に、自分の前に入った家族の落としたものを自分が見てしまうこともあるわけです。

 

気持ちいいものではないですよね。

 

それと、春から夏にかけては汚い話しですが、ウジがわきます。

奈落の底から、ウジがよじ昇ってくるのです。

 

僕がそれを目撃すると、おしっこを掛けてウジ虫を奈落の底へ落としてやるのです。

   

それと注意しなければならないのは、落とし物をしてはいけないことです。

僕が子供のころになにかを落していまって、それを母親が苦労して取ってくれたような記憶があります。

基本的に、ぼっとん便所に落とし物をしたらアウトです。


いま私の自宅ではウォシュレット付きのトイレですから、あの頃が考えられないですね。

 

それに、いまのように柔らかいトイレットペーパーは無かったですし。

あの頃はゴワゴワした紙でお尻を拭いていました。

 

それを考えるといまのトイレはまるで別世界ですね。

別の惑星にやってきたかのようです。

 

ウォシュレットを一度使ってしまうと、もうウォシュレット無しでは気持ち悪いようになりました。

人間って便利なものになれると不便が耐えられなくなるんですよね。

 

それにしても、ぼっとん便所は怖い。

 

たしか、都内でも数件はまだ汲み取り式の便所があるようですよ。

 

便利な世の中になることは、良いことですね!

 

 

もう、二度とぼっとん便所は使いたくない!

 

汚い話しですみませんでした。

 

 

お読みくださり、誠にありがとうございました。

 


『捨て猫』



最近、捨て猫を見かけましたか?

 

僕の幼少期(小学校入学前)には、よく捨て猫または野良猫を良く見かけました。

 

それは昭和で言うと40年代後半から50年代の時代です。

 
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でも、大人になってしばらくたって、ふと思ったのは、「最近捨て猫を見ないな~!」というものでした。

 

僕は、幼い頃から猫が大好きでした。

まだ小学校に上がる前、僕は母親がそば屋をやっている長屋(商店街のようなもの)の奥で暮らしていました。

 

その頃に、お店兼自宅の裏でよく子猫(捨て猫もしくは野良猫)を拾ってきて育てていました。

 

でも、僕がまだ幼かったからでしょうか、育てていた猫がいつの間にかどこかにいなくなってしまうのです。

 

それでも僕は懲りずに猫を拾ってきます。

 

家のそば屋は小さな店舗で、すぐ隣の自宅スペースと繋がっていますから、猫が店舗のほうに行ってしまうことがよくありました。

 

お客さんを招く「招き猫」になるならいいのですが、僕の猫が困ったことをするようになりました。

それは、店舗に設置してあるクーラー(当時のものはとても大きい)の裏に糞をしてしまうのです。

 

それでよく母親から文句を言われました。

 

いま考えると、そのことに頭にきた母親が猫をこっそり捨てていたのかもしれませんね。

 

真実はわかりませんが、とにかくいつの間にか猫がいなくなってしまうので、僕はとても悲しくなります。

 

でも、裏の空き地にいくと明らかに飼い猫でない彷徨っているように弱弱しく「ニャーニャー」鳴いている子猫を見つけるのです。

そしてまた飼い猫にするのです。

 

でも不思議です。

僕の拾ってきた猫たちはどこへ消えていったのかな?

それがわかりません。

 

 

僕は、小学校2年生のときに、そば屋のある長屋から引っ越しました。

母親が新しく喫茶店を別の場所で開くためです。

 

それからしばらくは猫のいない生活でしたが、僕が小学校5年か6年生のときに、親戚の叔母さんから子猫を譲り受けました。

 

三毛猫だったので僕は「ミー」と名付けました。

 

目の中に入れても痛くないほど可愛がった僕は、自分の布団に入れて寝ることもよくありました。

 

この気持ち、猫好きの人にはわかってもらえますよね?

 

このとき飼っていた「ミー」は僕が中学生のときに、突然いなくなりました。

 

ある日、僕が学校から帰ってくると、どこにもミーがいないので必死にさがしました。

けれど、どこにも見当たりません。

自宅の近所を探し歩きましたが、それでも見つけられませんでした。

 

家族に分からないように、お風呂場と布団の中で泣きました。

 

 

こうして子供の頃の僕は、飼っていた猫が突然いなくなる悲しみを何度も味わいました。

 

ペット(猫)を可愛がっているひとにとってこんなに悲しいことはないですよ。

 

 

それと、僕が言いたいことは、捨て猫、野良猫が都市部ではものすごく減ってしまったということです。(これは単に捨て猫を見かけないという意味です)

 

捨て猫があると、いつでも拾ってきて猫を飼うことが出来ます。

もちろん猫を捨てるということは動物にとっていいことではありませんが、それは新しい飼い主と出会うことでもあると思うのです。

 

時代が進むに従って、野良猫がゴミを荒らすとか、糞を庭にするとか、夜中に鳴き声がうるさいとか、または衛生面などの問題から殺処分されたりすることが多くなり、いまではほとんど捨て猫を見ることがなくなりました。

 

個人的には捨て猫があると拾ってこられるからいいのですが、社会全体からするとよくないことなのでしょう。

 

それと捨てられる猫にとっても悲しいことなのですね。

 

ただ、表面上の捨て猫(昭和の時代によくあった、段ボールに入れて道端に置く)は減ったようですが、違った形で飼っていたペットを捨てる人はまだたくさんいるようです。

 

けれど、いまでは捨てられた猫を保護する人たちが増えて、その人たちが保護猫として世話をして、新しい飼い主を見つける活動が活発になってきているのです。

 

ですから、本当は近所で捨て猫を見かけないとしても、実際は猫を捨てるひとがいまだにいなくならないということです。

 

とても悲しいことです

 

僕が子供だった昭和の頃は、道端で猫を見つけられましたが、その猫たちはペットショップで高いお金を出して買ってきた血統証つきの猫に負けないくらい可愛いペットでした。

 

猫の話はまた別のときにしたいと思います。

 

 

お読みくださり、誠にありがとうございました。

 


『名前が変わった』




みなさんは名前が変わった経験がありますか?

 

僕にはあります。

 

ここでいう名前が変わったというのは、結婚して女性の苗字が変わったということではありません。(婿に入れば男性が変わることもある)

 

それと、最近ニュースでやっていた、とても珍しいというか、変な名前を改名したということでもありません。

 

じゃあ、なんなんだ?

 

それは、わりと世間でよくあることが理由です。

 

それは両親の離婚によって苗字が変わるという経験です。

 

僕がそれを経験したときはたしか幼稚園から小学校に上がるときだったと思います。

(もう古い話しなので記憶が違っているかもしれません)

 

昭和で言うと、昭和五十年(1974年)の春頃の出来事です。

 

幼稚園のときも小学校に通うときも名札をつけますよね。

あれって他の子供たちに自分の名前を教えていることですよね。

 

なんでこんなことを書いているかというと、小学校に入って僕の名札を見た幼稚園から一緒だった人に言われた言葉が僕の胸に突き刺さったからです。

 

 

その言葉とは、

「おまえ、なんで名前変わったんだよ」

というなんでもないような台詞です。

 

でも、僕はそのときドキッと胸に痛みを感じました

僕はその言葉になにも言い返せませんでした。

それは悲しかったからです。

 

両親の離婚については、小さかったからよくわかっていません。

でも、僕は母親に引取られて育てられることになりました。

 

もともと僕の家族は町議員をしていた父、母、祖母、腹違いの姉、長兄、次兄、そして三男の僕でした。

しかし、母親が家を出るときに長兄と僕を連れて出ていったのです。

次兄は父がひとりになってしまうのがかわいそうだからといって父方に残りました。

僕の場合は、幼かったので僕の意思とは関係なく母親に連れていかれたということです。

 

両親が離婚したころは、母がおそば屋の商売をしていました。

だから、離婚できたんでしょうね。

 

僕は明らかに父親っ子だったので、父と離れたことがショックだったのです。

それと仲の良かった次兄とも離れたことも寂しい気持ちになりました。

 

そういう経験をしたからでしょうか。

僕は小さい頃はとてもおとなしい子供でした

黙っているとよく「女の子?」と間違えられることがありました。

 

小さいながらも傷ついていたのです。

 

それが原因か分かりませんが、幼稚園のときと小学校一年生のときだったと思いますが、

お漏らしをしてしまったことがあります。

それは、恥ずかしくてトイレに行けなかったのです。

トイレに行きたいとも言えないのです。

ですから、我慢の限界まで我慢してしまって、結局おもらしをしてしまうのです。

 

 

僕に「なんで名前変わったんだ」と言った人は、別に悪気はなかったのかもしれません。

小さい子供にとってはただの疑問にしか過ぎなかったのでしょう。

でも、それが僕の心の傷をえぐりました。

 

祝福する意味で名前が変わるのは良いことですが、悲しい理由で名前が変わるのは子供にとって辛いことです。

(離婚でも父子家庭なら苗字は変わらない)

 

離婚にいたるには、人さまざまな理由があるとは思いますが、子供にとっていいことはなにもないと思います。

(特殊事情を除いて)

 

最近は日本においても欧米並みに離婚率が高まっています。

 

仕方がない理由もあるとは思いますが、もう少し離婚のなくなる世の中であって欲しいと思います。

 

子供の幸せよりも、個人の幸せを求めすぎているように思います

 

行き過ぎた個人主義には賛成出来ません。

昭和の時代よりも、離婚が増えたことに憂慮しています。

 

 

お読みくださり、誠にありがとうございました。

 


『昭和の遊び場(空き地)』



平成ももうすぐ終わりを向え、この春から新元号となる時代の子供たちはどこで遊んでいるのだろう?

 

僕らが子供の頃(昭和でいうと昭和五十年代のころ)は、空き地がたくさんありました。

 

本当は誰かの私有地であったり、町の所有地だったりしたのかもしれませんが、そこに建物がなければ僕らは平気で入り込んで遊んでいました。

 

なにをするっていうわけではないのですが、近所の遊び友だちと一緒に過ごす場所があったことが昭和の時代の子供たちには許されていたのです。

 

それはもしかしたら、僕が生れ育った場所が田舎町だったからかもしれませんが、町のあちらこちらに空き地がありました。

 

本当は、所有者が知っていたのかもしれませんが、子供だからと言って黙って僕らを遊ばせてくれたのかもしれません。

もちろん、叱られて退去させられることもありました。

 

現代の子供たちは空き地で遊んだ経験はないのかな?

学校の校庭とか、キャンプ場とかそういったきちんと運営管理されている場所で遊ぶのがほとんどなのかな。

 

あとは公園ですかね。

 

僕らが子供の頃も公園は町にありましたから、そこへ行って遊んでいると、どこの子供か分からない子供たちがやってきてお互いにけん制しあったりしました。

 

やっぱり子供たちにも縄張りというのがあったりするんですよね。

それと通っている学校の違いですね。

学校が違うと敵対意識が芽生えることがあります。

特に同性同士だと

 

でも反対に異性だと、普段の学校生活ではない出会いになるから、少しトキメクことがありましたね

 

小学生の時の僕は駆けっこが得意でした。

あるとき公園で遊んでいた時に、別の小学校に通っていると思われる女の子が来て、どっちの足が速いのか競争しようとなったことがありました。

 

僕は女子に負ける気がしなかったから、自身満々で受けて立ちました。

よ~い、ドンの合図で公園の端から端へ向かって走りました。

 

僕は手加減する気はなく、本気で走りました。

圧倒的な差を見せつけて格好いいところを見せてやろうと思ったのです。

 

その女の子は、一緒に来ていた友達から足が速いと言われていましたが、実際競争してみると確かに早かったです。

 

走りだした瞬間にそれが分った僕は手加減なしの全力で走りました。

結果は僅差で僕の勝利

 

でも、内心焦りました。

 

小学校の運動会ではクラスで四人(男子4人女子4人)しか選ばれないリレーの選手に毎年選ばれるほど足には自信があったからです。

 

僕は背が低いほうでしたが、僕よりも背の高い男子と競争しても勝つことがほとんどでした。

ですから学校の女子には負けたことがありませんでした。

 

その時は女子でも足の早いやつがいるんだなと驚きました。

 

そうやって公園だとか空き地だとかに行くと普段では会えない子供たちと出会うことがあります。

 

でも、今の時代の子供たちは部屋でゲームをしたりすることが多いのでしょうか。

 

子供たちが自由に遊べる空き地がないから、家の近くで遊ぶとなると道路とかになってしまい危険が伴います。

いまの子供たちはかわいそうだなと思います。

 

でも、逆にゲームもパソコンもスマホもなかった僕らのほうがかわいそうだといわれそうですけど。

 

空き地ってなにもない空間なんですけど、そこには子供の空想が生まれる場所でもあるんですよね。

それと、子供社会がそこにあるんです。

 

子供通しが仲良くなったり、喧嘩したりする空間でもあるんです。

 

そうした中で子供同士の力関係とか付き合いとかを学ぶことが出来る空間が空き地だったように思います。

 

アニメ「ドラえもん」でも、ジャイアンが土管の上でリサイタル(歌を唄う)を開きますが、そこは空き地ですよね。

そんな空き地が昭和の頃はたくさんあったのです。

 

空き地は昭和の子供の社交場です。(*^・ェ・)ノ

 

 

お読みくださり、誠にありがとうございました。

 


『バレーボール部の思い出』



今回は、中学生のときの部活の思い出を語っていきたいと思います。

 

僕は中学校に入学すると同時にすぐに部活に入部しました。

それは「バレーボール部」です。

 

 

【入部のきっかけ】

なぜ、バレーボール部なのかというと、僕らが小学生の頃にテレビでバレーボールのドラマやアニメが流行ったことがありました。

その影響なのか、小学六年生のときのクラスメート数名で「みんな一緒にバレーボールをやろう」という話がすでに持ち上がっていました。

 

ですから迷いなくバレーボール部に入部しました。

 

それは、昭和55年(1980年)の春の出来事です。

 

でもいまから考えると不思議なことでもあります。

実は小学校5,6年とクラス替えが無く2年間同じクラスメートだったのですが、そのときの有志が集まって野球チームを作っていました

 

その野球チームは「グリーンコンドルズ」と言って、きちんとユニフォームも製作しました。

ですから、みんなおそろいのグリーンの帽子をかぶっていました。

 

そうした流れからいくと、そのメンバーで野球部に入るのが自然な流れなのに、なぜかバレーボール部だったのです。

 

おそらく誰かが、テレビの影響を受けてバレーボールの魅力に取りつかれたのでしょう。

それで他のクラスメートを引き入れたのかもしれません。

 

 

【部活の苦労】

しかし、バレーボール部に入部したのはいいものの、小学校時代にはなかった上下関係に遭遇します。

小学生って、別に上級生がいてもそれほど気を使わないで済みますが、中学生ともなるとまったく別世界に来たように先輩後輩の上下関係に縛られます

 

あの時代の入部したての1年生は先輩の奴隷みたいなものです。

「1年声だせ~!」と怒鳴られる毎日です。

練習はあくまで試合にでる先輩たち中心に組み立てられたメニューとなっています。

一応基本練習はやりますが、実践的なメニューのときなどは球拾いです。

大きな声を出しながらボールを拾うのです。

 

そして、先輩たちが怒られると監督の怒りが跳びます。

監督はこう言います。

「うさぎ跳びやれ」

そういわれて先輩も後輩も全員がうさぎ跳びでコートを一周するのです。

 

うさぎ跳びってやったことありますか?

 

あれって足が痛くなるんですよね。

 

ですから、いまでは虐待的行為ということでスポーツ界では禁止となっているはずです。

 

それが僕らの頃は当たり前にやらされていたのです

 

それと、なにが辛かったかというと、練習中に水が飲めないことです。

練習が終わるまで水分補給が禁止となっていたのです。

 

これもいまじゃあり得ないことですね。

 

どうしてあの時代はそんなことがまかり通ったのか分かりません

夏なんて大変です。

喉が渇いて死にそうになります。

それでも我慢して練習をしていました。

 

いまこんな練習をしたら、その監督、コーチの首がいっぺんで吹っ飛びますよね。

 

いや~すごい時代でしたね。

 

喉の渇きを我慢して、練習が終了し、やっと水が飲めるかというと、まずは先輩からなんですね。

先輩たちが飲み終わってから後輩の順番となるのです。

 

これって、相撲の食事風景と同じですね。

 

この光景は自分たちが上級生となると逆になるんです。

まさに天国と地獄。

今度は自分たちが先輩たちにやられたことを後輩にするんですね。

(もちろん個人差はあります)

でも、僕は比較的後輩には優しかったですね。

 

先輩だから、無条件で威張るということが変だと思っていたからです。

わずかな生まれの差でそんなに偉くなったりこき使われたりするなんておかしいのではないかと思っていたからです。

 

ただ、昭和の時代の部活(スポーツ界)は、どこも似たり寄ったりではなかったかと思います。

 

もちろん先輩後輩の関係において礼儀正しくするなどということは人として当然あっていいとは思いますが、あの昭和の頃の部活道には行き過ぎたところがあったと思います。

 

それは軍隊に似ています。

そもそも世界中で大きくて昔からある組織と言えば軍隊です。

ですから、教育界も会社組織もさまざまな組織が軍隊の統治システムから学んだことがあったのです。

 

ですから、昭和の部活動は軍隊的なのです。

 
 

【バレーボール部に入部して良かった事】

 なんといっても苦楽を共にした友だちを作れたことでしょう。

学生時代にとって友達がいるかいないかというのは、すべてといってもいいほど重要です。

いつも一緒に行動する仲間がいたことは中学時代に喜びを与えてくれました。

 

人としての集団行動、上下関係を学べたこと

 

試合で勝つことで勝利の喜びを感じられた

 

そしてやっぱり一番大事なことは、努力することの大切さを学んだこと

 

苦しくても耐えること。

辛く苦しい練習に耐えることで人としての成長があったと思います。

 

それでもバレーボールを必死にやったことで僕はジャンプ力がつきました

体力測定のときにクラスメートが僕の跳躍を見て驚いていました。

 

 

 

【残念で悔しかったこと】

ただ、残念なことがあります。

それは僕がバレーボール部の同学年の中で一番背が低かったことです。

 

バレーボール部は身長が高いほうが有利です。

というか、身長の高さが求められます。

 

なのに、僕が入部したときの身長は「135㎝でした。

その後身長は伸びましたが、明らかに身長は低い方に入ります。

当然、3年間補欠です。

 

僕があまりに背が低いものだから、一学年上の先輩から「かわいい~」とからかわれていました。

上級生となってからも、監督からはスパイク(アタック)の練習はしなくていいと言われ、ほぼレシーブばかりやらされました。

 

ですから、レシーブには自信がありました

それとサーブは意外と得意でした。

 

それでも試合には何度か出させてもらいました。

監督の配慮でしょう。

3年間一度も試合に出場できないではかわいそうという監督の情けですね。

 

 

【唯一の自慢】

試合に途中出場して、サービスエースを決めたことがありました。

 

僕のサーブは変化球となるのです。

ボールの真ん中を打つと、ボールの回転が止まるため空気抵抗を受けます。

すると、相手コートにたどり着くころにゆらゆらっと変化球となるのです。

 

ゆらゆら揺れる変化球はボールがどこに落ちるのか分からないので取りにくくなるのです。

 

それが僕の自慢でした。

 

僕らの頃のバレーボールでは、サーブは横打でしたが、90年代頃からボールを上に挙げて打つ打ち方が主流になりました。

その後はジャンピングサーブが主流となっているようです。

 

僕らが中学生のころはジャンピングサーブなんてやっている人はほとんどいませんでした。

 

 

【最後に】

やっぱり学生時代は部活に入って汗を流すことをすすめますね

仲間も出来ますし、体力、根性、そうしたことも身につきます。

 

中学時代のバレーボール部は、本当にきつかった。

でも、それもいま思えば青春の思い出です。

 

 

お読みくださり、誠にありがとうございました

 


『中学生のイタズラ』



今回は、中学生のときの思い出を語っていきたいと思います。

 

僕が中学生一年のときの思い出です。

それは僕を含めた5~6人のクラスメートが、担任の先生にビンタされたことがありました。

 

中一のときの担任は男性の中堅クラスの教員でした。

その担任は僕らの部活の顧問(監督)でもあったのです。

僕らがやっていた部活はバレーボール部です。

その監督が担任だったのです。

 

バレーボール部ですから、その監督(担任)は練習のときに僕らにレシーブをさせたりするために、いつもボールをバンバン打っていました。

ですから普段からビンタの練習をしているようなものです。

(そうじゃないか?)

 

ですから、担任にぶたれるときに恐ろしく思いました

 

そもそもどうして担任にビンタされるということになったのかというと、その頃クラスであるイタズラが流行っていたことが原因でした

 

そのイタズラとは、他のクラスメートの椅子の上に画鋲(がびょう)を置いておくというものです。

あらかじめ先にがびょうを置いておくこともあれば、座る瞬間にがびょうを置くこともあります。

 

椅子を引くとき、座るときに気が付く人もいるので、必ずそのイタズラが成功するとは限りません。

でも、たいがいは引っかかっていましたね。

 

そんな今考えると「ありえね~」と思うようなイタズラが流行っていました。

 

誰が最初に始めたのかは覚えていません。

でも、不良系のクラスメートの仕業と思われます。

 

どうして、それが複数の人間に広まったのかというと、一度そのイタズラに引っかかった人は、たいがい仕返しをするか、他の人に同じイタズラをするようになります。

そうやって一人が始めたことがクラス中に広まっていったのです。

負の連鎖ですね。

 

いまの若い人はがびょうをもしかしたら知らないかも知れませんね。

学生の方でしたら、学校の先生に聞いてみてください。

 

そのうち誰かが担任にチクったのだと思います。

恐らく被害者。

それで担任の知るところとなり、「やったものは前に出ろ」と言われて僕らは教室の前方へ立たされたのです。

そこで一列に並ばされて、端から「ビシッ」「バシッ」とビンタされたのです。

それは本気で叩いているように思えました。

 

そのときに担任は、なぜそのようなことをしたのかという僕らの言い分は訊いてくれなかったと記憶しています。

まっ、言い分なんてないのですけど。

だって、他人に痛い思いをさせるだけの悪いことですから。

 

要するにまだ子供だったのですね。

それも悪ガキです。

決して誓いますが、僕が不良だったわけではありません。むしろ真面目な生徒でした

 

あのころはグレるとか不良とかが流行っていた時代だったのです。

ですからそんな風潮もあってか、イタズラをして喜んでいたのですね。

 

でも、僕はこの事で学んだことがあります。

他人を理由もなく傷つけることはいけない、ということをしみじみと学びました

 

この話はあの時代だったから成り立っていたのです。

今の時代にもし、同じことが起きたとしたら担任はビンタをすることは出来ないと思います。

もし同じ行為をしたら即騒動が起きて親御さんが学校に抗議にやってきて、PTAの事案になるでしょう。

下手すると担任は解雇になるかもしれません。

少なくとも厳重注意をされるでしょう。

 

僕らが中学生の頃は、悪いことをしたら体罰をされる、ということが当たり前の時代でした

今の世の中では考えられないことですね。

もちろん暴力を振るうということは良くないことには間違いありません

 

それでもわたしは「単純な暴力」と「生徒を指導するための体罰」とは違うのではないかと思っています。

ただ、それを見分けることはとてつもなく難しいことです。

「生徒を指導するための体罰」と「単純な暴力」ではどこが違うのだと言えば、まず言えることは、生徒が明らかに悪いことをしたという事実がはっきりしていること

そして指導する教師が生徒への愛情があること

生徒の悪行を修正し、良き人間として指導しようとする気持ちが強くあることが必要です

 

言い換えれば、頭に来たから体罰をするのではなく、体罰を用いることが生徒の悪行を止めることにつながると判断がなされたときです。

つまり、何度口で話しても、何度説教をしても生徒が悪行を止めなかったときに最終手段として用いるのが体罰なのだと思います。

(それでも現代の教育観は体罰禁止の風潮です)

 

これをはたから見て判断することはとても困難です

 

それは体罰を受けた生徒の気持ちと体罰をした教師の気持ちの問題であるからです。

生徒が「自分が悪いことをしいたのだから仕方がない」「先生は自分を改心させようとして叱ってくれている」と感じれば、その生徒は教師の体罰に抗議しないでしょう。

また、同じような気持ちを親が持てば、親も学校を訴えたりすることはないでしょう。

 

また、教師が「この生徒が気に食わない」と思って体罰をしているのか、「この生徒の悪いところを直してやらねばならない」という使命感によって行っているのか、ということが一体どちらなのかという問題が重要です。

 

人類の歴史を見てみると、体罰のない時代のほうが多かったはずです。

 

かといってこんな話をしているから、お前は体罰肯定論者なのかというと、決して積極的に肯定しているわけではありません。

基本的に体罰ということはしないほうがいいし、やるべきではないと思っています。

 

しかし、場合によっては、相手によっては体罰が必要となることがあるように思えます。

それはあくまでも最終的な手段に限り、めったなことで使うものではありません。

それに相手への深い愛情が絶対的な条件です。

 

分かりやすく例えれば「金八先生」のような先生なら場合によっては許されるように思えます。

 

それでも体罰が許されないのが、「いま」という時代であります。

それは体罰という教育を受けて育った僕らにも理解できています。

 

もちろん、幼児などに体罰をするのは理由の如何によらず許されることではないと僕は思います。

 

僕は最近にニュースを見ていて思うことがあります。

体操のコーチが選手に体罰を加えたという報道などがありましたね。

そのときに、「体罰は良くないことだ」とみなは言います。

その通りだと思います。

そのとき報道などでは必ず一方的に体罰をした人間をつるし上げます

体罰がいけなかったとしても、「どうしてそのようなことをしたのか」「相手には落ち度があったのか、なかったのか」という議論があまりにも少なすぎるという気がします。

体罰を肯定はしませんが、体罰をした人の深い気持ちを探り、体罰をされた側に原因や落ち度がないかを掘り下げることも、こうした体罰騒動の今後の防止につながるのではないかと僕は考えます。

 

人を傷つけるということは、二つあると思います。

1.     体への暴力

2.     精神(心)を傷つける暴力

 

刑法では体への暴力しか、基本的に問題にしません。

ですが、言葉での暴力や態度で人を傷つけるということもあるはずです。

 

人間は心、感情を持っている生き物ですから、体への暴力を振るわなければいいというものではありません。

ですから、現代においてパワハラ、セクハラなどということが問題となっているわけです。

 

人間は、どうしても自己中心的に考えてしまう生き物です

ですから、自分が気づかないうちに誰かを傷つけていることもあるのです。

 

そうしたことにも目を向けなくてはいけないと思います。

 

 

話しを僕らの中学時代に戻すと、がびょうがお尻に刺さるのですから、痛いですよね。

そんなことをやってはいけません。

 

 

お読みくださり、誠にありがとうございました

 


『インベーダーゲーム』



「インベーダーゲーム」を知っているのは間違いなく昭和生まれの人ですよね。

あれは僕らが小学校5年生か6年生

まだ中学生になってない頃だったと記憶しています。

 

僕は茨城県の田舎町に生れて高校を卒業するまで、田舎の町で暮らしました。

僕が通っていた小学校のすぐ隣に駄菓子屋さんがありました

子供の頃は駄菓子を買うのがとても楽しみだったのです。

いまは便利なコンビニなどがどこでもありますが、昭和の50年代にはお菓子を買うなら駄菓子屋さんと決まっていました

(僕が住んでいた田舎では)

だってそういう時代ですから。

その駄菓子屋さんはお店の一角を改造して、何台かのゲーム機を設置するようになりました。

もちろん小学校側からは、ゲームは禁止の指示がでていました。

実際、小学校のころはほとんどゲームをしたことは無かったと思います。

僕らが本格的にゲームに夢中になったのは、中学生になってからだったと思います。

 

というのもテーブル式のテレビゲームは一回ごとにお金を入れる仕組み(いまでもそうですよね)なので、やりたくてもある程度のお小遣いがないと出来ません。

 

ですから小学生のお小遣いではゲームをするのも限られていまいます。

もちろん中には親からお金をたんまりともらっている輩もいましたけど。

 

とにかく僕が初めてテレビゲームなるものを経験したのは、インベーダーゲームでした

その少し前には、ラリー形式のテニスゲーム(名前を忘れました)とブロック崩しというのもありました。

 

ちなみにインベーダーゲームは通称アーケードゲームと呼ばれています。

株式会社タイトーが1978年(昭和53年)に発売したものになります。


 

インベーダーゲームとは、

いわゆる宇宙戦争をもじったものです。

インベーダーつまり宇宙人が攻めてくるので、それを自分の陣地に隠れながら現れてくるUFO(?)やインベーダー(エイリアン)をビーム砲で撃退するゲームです。

ゲームを進めていくと敵も攻撃をしてくるので、こちらの陣地が崩れていきます。

そうすると徐々に隠れる場所がなくなってくるのです。

しかも、敵のインベーダーの数が減ってくると、敵の動きが加速的に早くなっていくのです。

そうなるとこちらが不利なのです。

素早く動く敵を狙ってもビームが外れてしまうからです。

しかもこちらの陣地に特攻してくるのです。

するとこちらが攻め込まれてゲーム終了となるのです。

 

あれは上手く考えてありましたね。

ゲーム開始序盤はゆっくりとゲームを楽しませて、徐々にこちらを追い込んでスリルを味合わせる。そんでもって、そう簡単にはゲームを攻略させない。

だから、何度でもチャレンジしてしまう

そうプログラムされていたんでしょうね。

 

難し過ぎず、それでも簡単には攻略出来ない

それなりの経験(ゲームをやった回数)がないと上達しない。

そういうふうに作られていたんですね。

 

当時は喫茶店やいろいろなところにインベーダーゲームなどのアーケードゲームが設置されていたと思いますよ。

ゲーム会社は相当儲かったんでしょうね!

 

このインベーダーゲームの進化版が『ギャラクシアン』という敵弾を回避しながら攻撃するという戦闘ゲームに受け継がれていくんですね。

ギャラクシアンも大好きでした。

ギャラクシアンはインベーダーゲームに比べるとだいぶ複雑で面白さが増していました。

 

今のCGを駆使したテレビゲームやネットゲームと比べたら化石みたいな価値しかないのかもしれませんが。

当時の子供たち、いや大人たちも含めて昭和のあの頃の人たちはみんな夢中になったものです。

 

いまは3Dの時代ですから、ずいぶんと進化したものですよね。

リアル感、立体感が比較にならないほど違います

それでも昭和のあの頃の僕たちの心を掴んで離さなかったのがインベーダーゲームでした

あんな平面の二次元のゲームで、操作も単純、ストーリーがあるのかないのか分からないゲームでしたけど。

 

インベーダーに勝ちたくて夢中でコインを機械に投入したものです。

 

ゲームの世界はこの数十年で格段に進歩しました。

これから先の数十年でゲームの世界はどれだけ変わるのでしょうか?

Dの先がVRだとするとそれで最終地点なのか、その先があるのかまったく予想出来ません。

 

つくづく思いますが現代の若者は恵まれ過ぎていると、昭和のおじさんは思ってしまいます。

それは時代の違いだから嘆いてみても始まらないのですが。

 

インベーダーゲーム、単純なゲームでしたが、僕らの子供時代を楽しませてくれました。

ただし、そんなゲームに夢中になったことで勉強に身が入らなくなったのかもしれませんね。

 

あ~懐かしのインベーダーゲーム。

どこかでもし見かけたら、ついやってしまいそうです。

 

この気持ちは昭和のひとたちは分かってくれるでしょう!

 

 

お読みくださり、誠にありがとうございました。

 


『南野陽子というアイドル』



僕が南野陽子というアイドルを初めて見たのがいつだったのかは、とうに忘れてしましました。

でも、ナンノ(南野陽子の愛称)のファンになったのは確か高校生の頃で間違いないと記憶しています。

 

清純でどこかはにかんだ表情をするナンノには一目惚れ的な印象を受けたと思います。

 

ここで南野陽子というアイドルについて少し紹介します。

 

生年月日   1967年 6月23日  (現在51歳)

出身地    兵庫県神戸市

デビュー日  1985年 6月23日(18歳の誕生日)

デビュー曲  「恥ずかしすぎて」

キャッチフレーズ  「純だね、陽子」「可憐だね、陽子」

代表作品   ドラマ「スケバン刑事2 少女鉄仮面伝説」

       映画「はいからさんが通る」

その他の曲  「楽園のDoor」「話しかけたかった」「はいからさんが通る」「吐息でネット」

80年代後半に最も活躍した女性アイドル四人を総称して「アイドル四天王」と呼ばれていたようです。

四天王の他のアイドルは、「中山美穂、工藤静香、浅香唯」です。

 

 

僕が初めてアイドルに目覚めたのは中学生の頃で、その頃好きだったのは中森明菜でした。

でも、だんだん明菜が大人っぽく変身していくに従って僕は明菜から少しずつ離れていったように思います。

それに代わるように浮上してきたのがナンノでした。

 

実はナンノとは同じ学年であったことも親近感を持つにいたったのです。

(僕はは早生まれの1968年1月生まれです。ですから1967年6月生まれのナンノとは同学年となります)

明菜は僕より年上なのですが、本来僕は年上の女性をあまり好みません。

明菜だけが特別であったといってもいいでしょう。

 

明菜とナンノに共通しているのは、顔の輪郭、髪型などが挙げられます。

それに明菜が「スローモーション」「セカンド・ラブ」などで見せた透明で清純なイメージが僕にはとても魅力的でした。

 

これはある程度年齢を重ねたときに自分で理解したのですが、僕の女性の好みにはいくつか特徴があるのです。

 

僕の好みの女性の特徴。

・顔の輪郭は卵型。(まん丸でなく卵型)

・髪型は長いストレート。

・口元が小さいこと。

・目ははっきりとしていて二重であること。

・鼻は高くなく小さめであること。

・清楚感が漂うこと。

・恥じらいがあること。

 

逆に好まないタイプは、

・男っぽい態度や言葉を吐く人。

・口の大きい人。

・鼻が高い人。

・顎が出ている人。

・顔の輪郭が四角いひと。

・ぶりっ子。

・裏表のある人。

・タバコを吸う人。

・大酒のみの人。




やはりナンノと言えば「スケバン刑事」ですよ。

初代のスケバン刑事は、斉藤由貴でした。

そのシリーズの第二弾としてナンノが主演したのです。

それは鉄仮面をつけた少女が実は刑事であるという設定なのです。

(そんなんあるか~?)

しかも初代から引き継いだヨーヨーが武器なのです。

(おもしろすぎやろ!)

ヨーヨーで悪者を倒すんですね。

毎週見ていましたよ。

スケバン刑事シリーズは3まであるのですが、番組としてもナンノの出演したシリーズ2が一番良かったと思います。

 



それとナンノといえば、やっぱりラジオ「南野陽子 ナンノこれしきっ!」ですね!

放送が開始されたのが1986年10月。

確か深夜の放送だったと思います。

他の記事で書きましたが、僕は高校生のときに新聞配達のバイトをしていたので、夜の10時ころになると眠くなって寝てしまうのです。

そんな僕がどうやってナンノのラジオを聞いていたかというと、ベッドの枕元にラジカセ(カセットテープの再生と録音が出来て、ラジオが聞けるもの)を置いておきます。

ラジオが始まる時間に目覚まし時計を掛けます。

目覚ましがなったらラジオをつけ、カセットテープに録音します。

後は消し忘れても、テープを使い切ってしまうと勝手に録音が終了するので、寝ていても大丈夫なのです。

後で、その録音したナンノの番組を聞く、という苦労を毎回していました。

とにかく朝早く起きる関係でとても眠いので起きていて生で放送を聴くことが出来なかったのです。

それでも、薄っすらとした意識の中でナンノのおしゃべりを聞いていました。

いまの時代ではこんな苦労をするひとはいないから、なにやってんの?

と言われそうですね!

 

それと僕の中に特に記憶に残っているナンノがあります。

それは深夜番組だった「さんまのまんま」にナンノが出演したときのことです。

明石家さんまさんを前にして彼女が語っていたことは、自分の将来計画でした。

それは具体的に、何歳で結婚して、何歳で子供を産んで、男の子と女の子でなどと未来が決まっているように語っていました。

そのことに明石家さんまさんからずいぶん突っ込みを入れられていました。

このひとおかしいのとちゃうか!

的な突っ込みです。

結局、その計画通りにはいかなかったようですけど。

 

それと大河ドラマ「武田信玄」に出演していました。

主役の中井貴一さんが武田信玄役で、ナンノは湖衣姫役で出演していました。

(湖衣姫とは、武田信玄が滅ぼした諏訪湖の一族の諏訪氏の娘です。その娘を信玄が側室として向かい入れました。その諏訪氏の娘との間に出来たのが、武田氏最期の当主となった武田勝頼です)

 

 

女優をしながら歌手もしていましたね。

デビュー曲の「恥ずかしすぎて」はもちろんのこと、「楽園のDoor」「話しかけたかった」「はいからさんが通る」「吐息でネット」全部買って聴いていました。

当時はまだCDが無い時代だったのでレコードです。

(いまの若い人にレコードといっても理解してもらえないかな?)

ですからレコードを買ってきてカセットテープに録音します

その録音したカセットテープをラジカセなどで聴くのです。

いまのCDプレーヤーと違ってアナログですから、もう一度聴いたりするにはいちいちテープを巻き戻す必要があったんですね。

あの時代の人たちはそうやって音楽を聴いていたのです。

カセットテープを使用するラジカセにリピート機能なんて便利な機能は付いていませんから。

しかし、ナンノのレコードはいつも買っていましたが、ひとつだけ残念なことがあります。

それはナンノに歌唱力が無いということです。

(失礼しました!!)

決して歌が上手いとは言えないのです。

僕が好きだった明菜は歌唱力がありましたから、純粋な音楽として聴くというよりも好きな女性アイドルが歌っているから聴いているというレベルです。

楽曲もドラマや映画の主題歌などが多く含まれていたと思います。

それでもナンノ人気で、ナンノの曲が「ザ・ベストテン」「歌のトップテン」などにランクインしていましたね。

明菜の曲は、ずいぶん時間がたったいまでも聴けますが、正直ナンノの曲はいまさら聴こうとは思いません。

(すいまそん!)

 

 

ニュースでは私生活でのことが取り上げられていますが、ナンノファンとしては、彼女の幸せを心よりお祈りいたしております。

 

とにかく僕が高校生から専門学校に行っている時期にとても好きなアイドルでした

 

レコードは、まさに昭和という時代を感じさせるものです。

 

お読みくださり、誠にありがとうございました。

 


『新聞配達』

 

今回は、僕が高校生の頃にしていた新聞配達の思い出を語っていきたいと思います。

 

 僕が生まれ育った町は、関東地方のとある県にある田舎町でした。

当時住んでいた町には小さめのデパートらしきものがやっと立ったくらいで、高校生くらいの若者がアルバイトするようなところはほとんどありませんでした。

町には個人で経営しているお店が並ぶ商店街などがありますが、アルバイトとして高校生などはほぼ雇いません。

 

現代の若者がアルバイトをしようとしたら、マクドナルド、コンビニ、スターバックスなどのコーヒーショップやさまざまな働き場所があるでしょう。

僕が過ごした昭和の頃に比べれば、いまの若者はなんて恵まれているのかと羨ましい限りです。

(昭和の時代というよりも、僕の住んでいた町の地域性かもしれませんが)

 

しかし、昭和五十年代の後半から六十年代の初めにかけての僕が住んでいた町ではそうしたアルバイトできるようなお店や働き口はありませんでした。

もしかしたら、なにかあったのかもしれませんが、僕のところには情報が入ってきませんでした。

 

僕の家庭は母子家庭で、年の離れた兄と母親との三人で暮らしていました。

母親は喫茶店をしており、ほぼひとりでお店を切り盛りしていました。

まさか自宅の喫茶店で働くわけにもいかず、なにか小遣い稼ぎの方法がないかと感がえていたところ、同級生が朝日新聞の販売店で新聞配達のバイトをしていると聞いて、自分もそこへお世話になることにしました。

 

それは、高校に入学して学校生活にも慣れてきた夏休みの頃だったと思います。

理由はアルバイトをして自分でお小遣い位稼ごうと考えたからです。

 

友達の紹介で朝日新聞の販売店に行くことになりましたが、実は、新聞配達をするのはその時が初めてではなくて、中学生の頃に一度経験があったのです。

それは実に短い期間でした。

中学三年生でしたから、昭和五十七年(1982年)の頃だと記憶しています。

当時、中学生のくせにお小遣いが欲しくてクラスメートで新聞配達をしてお金を稼ぐ人がいました。

その頃の中学生が親からもらえるお小遣いからすると、数倍以上のお金を使えるようになる。

それがとてもうらやましくて、新聞配達をする人がいたのです。

 

いまなら中学生が働くのは許されないことでしょうが、当時はいまのように厳しくはなかったのです。

田舎だったせいもあるのでしょうか?

 

僕もお金欲しさに、クラスメートを真似て読売新聞の販売店で働かせてもらうようにお願いしました。

初めは受け持ちの地域を働いている大人の人の後について行って、配達先の場所とコースを覚えるのです。

もちろん大人の先輩はバイクで、こちらは中学生ですから当然自転車です。

それも通学用のチャリです。

これが前かごと後部に荷台がついているので、新聞配達をするのにもってこいなのです。

 

一通り覚えて、さあ独り立ちをしたところ、入れる新聞の種類を間違えたようで、その新聞店からはすぐに「辞めてくれ」と言われました。

仕方がないので、次に別の新聞店にいくことにしました。

読売がだめなら毎日だ~!

と、人の良いおじいちゃんが営む毎日新聞の販売所でお世話になりました。

 

そこでは首にされることもなく、たしか三か月くらい働いたと思います。

それは欲しかった金額が貯まったのでもういいと思って辞めたのです。

その毎日新聞のおじいちゃんはとてもいい人で「なんで辞めるのか?」と聞いてきて、僕が「受験があるから」と答えても、「受験が終わったらまたやりなさい」と言ってくれるとても面倒見のいい方でした。

それでも僕は初めから長くやるつもりがなかったので、あっさりと辞めてしまいました。

大きくなって考えると、なんて自分勝手な中学生だったのかと、反省しました。

そのおじいちゃんの優しさはいまでも心に残っています。

 

そうした中学時代の経験があったので、高校一年生の途中からまた新聞配達をするようになったのです。

 

 その理由は、高校生ともなると欲しいものがたくさん出てくるけど、母子家庭だから親に迷惑を掛けられない。

だから、自分の小遣いくらい自分で稼ごうと思ったのです。

 

しかし、新聞配達の仕事は当然朝が早いのです。

当時の記憶はだいぶ薄れたのですが、たしか五時くらいには起きていたと思います。

 

起きて着替えるとすぐに販売店に行きます。

すると、自分の担当する地域の配達する新聞が種類と部数を揃えて置いてあります。

お店の人が準備してくれるのです。

それを、自分の配達手帳を見ながら、配達する順番通りに新聞の種類を並び替えます。

それが終わると自転車の前かごと荷台に乗せて出発です。

前かごには全部乗らないので、前半の分を前かごに入れて、後半の分は後ろの荷台に乗せます。前半の分が無くなると後ろの荷台から移し替えるのです。

全部配達したら、それで終わりで、そのまま自宅へ帰ります。

帰宅したら、朝食を取って、ほんの少し休んで、学校に行きます。

そんな朝早い高校生活を卒業するまでの二年半やりました。

当然、学校に行くのも早いです。

教室にはいつも一番か二番くらいには行っていました。

 

新聞配達の仕事の良いところは、客と顔を合わせるわけでもなく、同僚に気を使って仕事をするわけでもないところです。

ひとりで外に出て無事に配り終えればそれでいいのですから。

 


 ただし、大変なこともあります。

それは天候です。

雨が降ると新聞配達はとてもしんどくなります

新聞は紙ですから、絶対に雨に濡れないようにしなければなりません。

大きなビニールに新聞の束を包んで自転車を運転します。

自分はカッパを着用します。

カッパを着ると、頭部を覆うフードで前が見づらくなります。

視界も雨によって悪くなります。

新聞の投函も、家によってはポストがなかったり、玄関のドアに挟むように指定されたりしています。

そうした新聞が雨に濡れる恐れがある家の場合は新聞をビニールに入れて配達します。

それも天気のいい日にはない作業なのでひと手間仕事が増えてしまうのです。

 

もっと辛いのが、雪の日です。

こちらは自転車で配達しますから、雪が積もると自転車が走れません。

装備は雨の日とほぼ同じですが、機動力が落ちてしまいます

要するに、時間がかかってしまうのです。

積雪が深くなると、自転車を押して配達しなくてはならなくなり、普段の倍の時間がかかったりします。

すると、あとでお店に苦情が入ります。

配達先の家によっては、仕事に行く時間までに新聞が配達されていないと朝に新聞を読めなくなるからです。

ですから、前の晩に雪がすでに降っている場合や予報で雪が降ると言っていた場合は普段より早く家を出るようにします。

 

僕は何度も雪の新聞配達をして、泣きたくなったことがあります。

だって、ただ自転車で雪道を走るだけでも大変なのに、自転車の前後に重たい新聞紙をたくさん積んでいるので、すごく重たいのです。

紙って、すごく重たいのです。

ですが、配達していると徐々に新聞が無くなり軽くなってくるのです。

 

そして、一番新聞配達でしんどいのが、実は正月元旦なのです。

理由はお分かりですか?

 

元旦にどうして新聞配達がしんどくなるのかというと、新聞そのものの分量はそれほど変わりないのですが、新聞に挟む広告が普段の倍くらいの厚みになるのです。

ですから、新聞一部が普段の倍くらいの厚みとなってしまい、新聞の束を折って自転車の籠に入れるのも、配達先のポストに入れるのも困難になるのです。

 

元旦の新聞配達が終わって正月二日は休刊日です。

そして、正月三日も元旦に次ぐくらい新聞が厚くなります。

これは配達する新聞と広告を合わせた重量がかさむので、重労働となります。

 

このときの大変さは、何十年たったいまでも忘れません。

 

僕は新聞配達を二年半やりましたが、新聞の休刊日って一年で数えるほどしかないのです。

ですから、学校が夏休みだろうと、冬休みだろうと関係なく毎朝早起きして新聞配達にいくのです。

 

今考えるとよくそんな生活が出来たな~と思います。

若いし体力があったからでしょうか。

お金も欲しかったし。

 

そして、僕の高校生活は、ただ朝早く起きて新聞配達するだけではありませんでした。

一年生のときは陸上部に所属して、授業が終わった夕方は毎日走り込みの練習です。

陸上でも僕は中長距離に所属していましたので、長い距離を毎日走っていました。

なお、陸上部は先輩との確執などがあり一年間で辞めてしまいました。

その代わり、二年生になってからは町の空手道場に通い始めました

空手の道場の練習は夜の七時から九時までの週二回でした。

ですから、陸上部を辞めてからは夕方に自由時間が出来ました。

しかし相変わらず朝は早く起床してまた新聞配達です。

当然、夜の十時くらいになると睡魔が襲います

ですから、夜更かしなんてできません。

そんな高校生活を送りました。

 

日曜だろうと、祝日だろと、夏休みで同級生が朝寝坊していようが、僕は朝早く起きて新聞配達をしていました。

気分は「およげたいやきくん」です。

(およげたいやきくんって知っていますか? 昭和に流行った流行歌です)

 

毎日毎日僕は早起きで、寒くても厚くても、雨が降っても雪が降っても、正月でもクリスマスでも新聞を配達する。

 

 「若い時の苦労は買ってでもしろ」という諺がありますが、そんな感じでしょうか。

僕なんかより、もっと苦労している人は世の中にたくさんいると思いますが、僕もちょっとだけ若い時に苦労したかな~と思います。

(こんなの苦労のうちに入らないという声もあるでしょうが)

 

 いまとなっては新聞配達の苦労も、昭和と共に過ごした僕のいい思い出の一つとなっています。

 

 

お読みくださり、誠にありがとうございました。

 


『昭和の冬といえば(コタツ)』



今回は、僕らが子供の頃の冬の思い出を語っていきたいと思います。

 

 昭和の冬といえば、やっぱりコタツにミカンですよね?

 

でも、もしかしたら、いまの都会の若い人たちはコタツ(炬燵)って知らないかもしれませんね。

 

ここで念のためにコタツを知らないひとのために簡単にコタツの説明をします。

 

コタツ(炬燵)というのは、いわゆる電化製品で、形は四角、四本の脚の付いたテーブルに布団がついたものと考えればよいでしょう。

テーブルは上下で分かれていて上部が平べったい板状のもの。

下の部分は骨組みで四角の中央部の下向きに電気ヒーターのような暖房機がついています。

上部の板と下部の骨組みの間に布団を挟み込むと、すっぽりと四方から身体を(おもに下半身)入れることが出来て、それで暖を取ります。

布団で囲まれた内部は空洞になっていますから、ヒーター(?)の熱でポカポカです。

このとき使用するのは、就寝のときの布団ではなく、いわゆるコタツ専用のコタツ布団です。

 

昭和の冬の食卓には全国どこでもコタツがあったはず。

いったいいつからコタツは家庭から姿を消していったのでしょうか?

 

そんでもって、コタツの上にはミカンが籠に入れられてのっている。

いつでも不足しがちなビタミンを補強するために昭和の人たちはミカンを冬にいっぱい食べます。

(そうでない人もいるでしょうけど)

 

僕は関東地方の某田舎の町で育ちましたが、子供の頃は寒くなるとコタツが出てきて、だいたいいつもミカンが置いてありました。

当時の我が家では、ミカンは箱ごと買っていたようです。

ですから、コタツの上のミカンが無くなると、ミカンが仰山詰まったミカン箱から補充するってなわけです。

 

コタツの良いところは、四角い形をしていますから、基本的に四人が四方から入ることが出来るために、家族が向き合ったり隣同士になったりして、すごく近い距離で一緒に暖を取ることになります。

そのことで、人と人との物理的距離が近くなるのです。

 

意外なことに家庭の中にある電化製品などが家族のコミュニケーションなどに影響を与えることが大きいと感じます。

ですから、電化製品の変化というものは、単なる時代の変化、進歩というだけでなく、家庭での家族のコミュニケーションの取り方まで変化させる力となるという気がします。

 

つまり、電化製品などが大きな変化を見せれば、それを使用する家庭での家族のコミュニケーションや関係などにも変化が起きてくるのではないかと思います。

 

僕らが子供時代を過ごした昭和の冬には、コタツがあって当たり前でした。

もちろん、コタツだけでは家全体が温まりませんから、石油ストーブなども併用します。

僕は関東平野で育ちましたから、寒い北国の人たちや逆に沖縄などの南国の人たちとでは違いがあるかもしれませんが、全国的にみればコタツは昭和の冬の必需品であったことは間違いないでしょう。

 

僕らのもっと前の世代になると、「堀コタツ(堀ゴタツ)」というものがありました。

堀コタツとは、コタツの内部にあたる場所に穴が開いていて、足を入れるとちょうど椅子に座ったように足を曲げられる優れものです。

しかし、床に穴が開いていることで汎用性がないことが、一般家庭での普及が広がらなかった理由のような気がします。

普通のコタツはどこへでも持ち運び出来ますから、別な部屋へと運んで使用することが可能なのです。

 

冬が終わったら、コタツはどうなるのか?

 

それは、コタツ布団をとってしますのです。

もちろん電気ヒーターの部分は使用しませんから、電源コードもしまいます。

 

するとどうなるのか?

 

四角い座卓だけが残るのです。

その四角い座卓は家族が食事などをする食卓にそのままなりますから、コタツは一年中利用価値があるということになります。

 

そうです、僕らが子供の頃に過ごした子供の頃との大きなライフスタイルの違いは、畳の部屋に座卓で食事をしたりくつろいだりするスタイルが多かったのです。

しかし、住宅事情が変化して、板間に椅子付きのテーブルにソファーという西洋式の家具が家庭の中に普及するとともに日本人のライフスタイルが変化してきたのです。

それによってコタツは徐々に姿を減らしました。

 


 それに加えてもう一つコタツを絶滅の危機に追い込んだものが存在します。

それは、「エアコン」です。

エアコンは、冬は暖かく、夏は涼しく快適に過ごすことが出来るため、誰でも欲しい電化製品となりました。

エアコンの使用で部屋全体が暖まるのですから、コタツの存在は必要なくなりました。

さらに座卓というものがなければその空間が空くため部屋が広く使えるというメリットまで生まれました。

エアコンこそ、コタツを絶滅の危機に追いやった天敵なのです。

(別にエアコンに恨みがあるわけではありませんので、あしからず)

 

しかし、いまとなると逆にコタツがある部屋が風流に見えたりします。

温泉旅館に行って畳の部屋にコタツがあると、つい喜んで足を入れてみたくなりませんか?

失われたからこそその価値が発生するという現象はコタツに限ったことではないでしょう。

 

コタツのデメリットは、寒くてコタツに入っているのだから、他の寒い空間(別の部屋や廊下など)に行きたくなくなるということです。

つまり、コタツから出たくなくなるという気持ちが湧いてくるのです。

(僕だけですか?)

ですから、コタツの上にミカンだのリモコンだの必要なものは置いてその場所から動かなくなります。

そうです、無精になるのです。

 

さらには、居間のコタツに入って暖まっていたのに、寝るために自分の部屋に行くと当然寒いので、このままコタツで寝たくなるのです。

すると当然、親に「コタツで寝るな」と叱られます。

コタツで寝ると風邪をひくと言われます。

本当のところは電気代がもったいなかったのかもしれません。

でも、僕が子供の頃は電気毛布なるものを使用して寝ていたように思いますから、電気代うんぬんではなかったのかな~。

 

 あとはコタツにずっと入っていると体勢を入れ替えたりしないと脚が痛くなるのです。

それと、猫背になる。(これは僕だけか?)

猫背になるというのは、冗談半分ですが、椅子の生活とコタツの生活を比べると、子供の成長期に影響があったのかもしれませんね??

 

言ってはなんですが、住宅そのものも昭和のころの住宅はいまほど断熱効果のある住宅ではなかったように思います。

ですから、住宅技術の進歩も少し絡んでくるのかな~と思います。

 

とにかく、家の中にある各部屋の全部でコタツや暖房器具を使用できないと、暖房器具を使用していない部屋は寒いのです。

布団だって入ったときは寒いというより冷たいのです。

ですから、僕のようにコタツでそのまま寝てしまいたいと思ったひとは、きっとたくさんいることと思います。

 

僕らが過ごした子供時代の冬はコタツが必須アイテム(電化製品)だったのです。

 

もし、いまコタツをご使用な方がいらっしゃいましたら、その方は風流人かも!

 

 

お読みくださり、誠にありがとうございました。

 


『怖い話(都市伝説)』



 今回は、僕らが小学生の頃に聞いた噂話(都市伝説)のことを語っていきたいと思います。

 

 当時小学六年生だった頃、クラス中に、いや学校中に出回った噂話に恐怖を感じたのは僕だけではなかったのではないでしょうか。

 

それは昭和で言うと55年西暦1979年ごろの話です。

 

 その噂話、いまで言うところの都市伝説とは、「口裂け女」です。

 

 ずいずん昔のことなので誰が言い出したのか、どこからその情報を仕入れたのか、まったく記憶にありません。

ですが、ある時口裂け女の都市伝説がクラス中を駆け巡ったのです。

恐怖と共に。

 

 はっきりしていることは、子供だった僕には、ものすご~く怖かったことです。

 

 ここで、口裂け女について少し説明いたします。

 

 髪の長い若い女がマスクを着けて道端に立っている。

 その女が子供たちに声をかける。

 「わたし、綺麗?」

 子供たちが「綺麗」と答えると

 「これでもか?」とマスクをとる。

 すると、口が耳元まで大きく裂けている

 そして、追っかけてくる。

 その足の速さは尋常でなく、100メートルを6秒くらいで追っかけてきて、持っている刃物などで切りつけられる。または、口裂け女と同じように口を切り裂かれる。

 

 また、逆の答えを言うとどうなるのか?

 つまり「綺麗じゃない」と女の容姿を否定すると、とたんに怒りだし前出の内容と同じ結果になる。

 

 つまり、「綺麗だ」と答えても、「綺麗じゃない」と答えてもどっちにしても口裂け女は同じ行動を取る。

そして、追っかけられて刃物(鉈、鎌など)で傷つけられたり、殺されたりする。

凶器に関してはいろいろな説があります。

その地域によって違いがあるようです。

 

対処法

「べっこう飴、べっこう飴・・・」と急いで十回唱える。

「ポマード、ポマード・・・」と急いで十回唱える。

などです。

 

 すると、口裂け女は姿を消す。

 

という恐怖の都市伝説です。

 

 

基本的に口裂け女は子供をターゲットにしています。

(なぜでしょう?)

 

まだ、社会のことも知らないあどけない世代を狙っているなんて悪いやつですよね~!

 

僕は、その話をクラスメートから聞いても、口裂け女なんていない。

嘘だ。と、思ったりしましたが、どうしても完全に心の中からその噂話を排除することが出来ませんでした。

それは他のクラスメートたちも同じような心境だったとおもいます。

嘘だと思いながらも、もし万が一、本当に口裂け女がいたらヤバイ。

怖い

そう思ったのです。

 

実際、僕は学校から家までの帰り道で、途中まで一緒だった友達と分かれてひとりになったときに不安になったものでした。

意味もなく後ろを振り返ってみたり、どこかで女の姿がないかを探していたり、どうか口裂け女と出会いませんようにと、心の中で祈ったりしながら恐怖と戦っていたのです。

 

 大人になったいまでは、「口裂け女」なんかいるわけないだろう!

と、それでおしまいです。

けれど、感受性の高い子供には、大人とは違った反応をするのです。

 

 


 今回、このブログを書くにあたって「口裂け女」について少し調べてみました。

 

『噂の発祥』 : 1978年の12月に岐阜県で起こった噂のようです。

『マスコミ』 : 翌年の1月には新聞に取り上げられています。

 新聞に取り上げられた記事では、農家の老婆が離れのトイレに行ったところ、口裂け女を見て腰を抜かした、となっています。

 

『噂のルーツ』 : 江戸時代に一揆に鎮圧で殺された農民の怨念が残っていて、それが妖怪伝説となったといされています。

また、明治時代、大正時代にも原型となるような噂があり、それらが土台となって昭和の時代に再度噴出するかたちで口裂け女の都市伝説が広まったようです。

 

『事件』 : 6月には、姫路市の20代前半の女性が包丁を持って口裂け女の恰好をしたため、警察に銃刀法違反で捕まっています。

 

『噂の鎮静化』 : 1979年8月になると噂が鎮静化します。

夏休みに入ったため、噂が静まったと言われています。


 

口裂け女以外にも都市伝説の類のものは複数存在しますが、どうしてこうした根も葉もないうわさ話が広まるのか? しかも全国規模で!

 

それは、人間も他の動物たちと同じように防衛本能を持っているからだと思います。

子供というのは、か弱い存在です。

親の庇護のもとにいるのが子供ですから、基本的に誰かの存在なくしては生きてはいけないのです。

 

自分ひとりで自分の身を守ることが出来ない時代なのです。

ですから大人より余計に防衛本能は働きます

そして、人間という生き物は感情の生き物です。

感情の中で一番感度が高いのが「恐怖心」なのです。

 

そうです。「恐怖」というのは伝播しやすいのです。

 

あの時代、携帯電話もインターネットもありません。

そんな時代に、全国に普及する噂話とはとてつもない伝播力を持っていたということになります。

すべて口コミと若干のニュースだけで全国の小学生、中学生たちを恐怖させたのですから。

恐るべし、「恐怖の都市伝説」と言うべきでしょうか。

 

では、SNSやネットの普及した現代に、こうした「口裂け女」のような都市伝説がもし現れたらどうなるか?

一瞬で全国に広まって子供たちを恐怖のどん底に追い込むか。

 

僕は、逆にあの時代に起こったような恐怖の伝播にはならないと考えます。

 

それは、情報自体が伝播するスピードはあの昭和の時代に比べたら比べようもないほど早く噂は広がるはずです。

しかし、いまの時代は個人が情報を不特定多数のひとに発信できる社会です。

ですから、「口裂け女に会った。怖かった」などという口裂け女の存在を肯定する噂と、「口裂け女なんかいるわけないだろう」という否定的な情報が飛び交うからです。

また、検索サイトなども豊富にあるますから、情報を調べることも出来ますから、調べてみたら作り話だった、単なる噂だったなどと恐怖を抑える方向にいくことが考えられます。

 

やはり、口コミしかない昭和の時代で、ターゲットが子供であり、噂を広めたのが主に子供だったからこその全国規模の恐怖を生み出したのでしょう。

 

あの昭和の時代に小学生だった僕は、必死に口裂け女への対処法をクラスメートから聞き出して、一生懸命記憶して、もしものときに備えようとしていました。

 

いま、思うとつい笑ってしまいます。

 

それも僕らが過ごした昭和という時代の出来事でした。

 

同じ世代であるあなたも、あの頃口裂け女に恐怖したひとりではないですか。

 

 

お読みくださり、誠にありがとうございました。

 


『ガンプラに夢中(3)コンテスト』



まずは(1)をご覧ください
続けて(2)をご覧ください

 今回もガンプラ(ガンダムのプラモデル)」に夢中になっていたころの思い出を語っていきたいと思います。

 

 僕らが中学生の頃、次々と発売されるガンプラを必死に手に入れながら製作していました。

新たなモビルスーツ(プラモデル)が自分の部屋の本棚にどんどん増えていくのはなんとも言えない快感でした。

そのうちファーストガンダムに登場するモビルスーツは全種類(当時発売されていたもの)

そろってしまいました。

 

筆塗も慣れ、プラモデル作りの雑誌を購入してきて、そこに載っているガンプラのリアル差に驚き、雑誌から学び、ただ色を塗って接着するプラモデル作りからさらに一歩先のプラモデル作りがしたくなりました。

 

雑誌に載っているガンプラは、「すげ~!」ってな感じで、もっとリアルなガンプラを作りたいと僕の製作意欲を刺激しました。

(プロが作っているのだから、すごくて当たり前ですけど、中学生の僕には衝撃的でした)

 

よりリアルにガンプラを製作するには、接着面を消す、よりきめ細かく塗装するウェザリングという汚しを施す、ただ製品をそのまま作るのではなく自分で改造する、などがあります。

 

〔接着面を消す〕

これにはパテというものを接着面に塗って、渇いてからヤスリで磨きます。

すると、接着した後が消えます。

接着面があるといかにもプラモデルをくっ付けました、と言わんばかりなので、接着面がなくなるだけでもリアル感が出ます。

 

〔よりきめ細かく塗装する〕

これは前回述べたので割愛します。

 

〔ウェザリングを施す〕

ウェザリングとは汚し破損の状態を作ることです。

モビルスーツが実際に戦闘すると、塗装が剥がれたり汚れたりします。

それと、戦闘などによってどこかがへこんだり傷ついたりします。

その状況を再現するのがウェザリングです。

これをするとグッとリアル感が増します。

もっと言うと本当に物語の中で戦闘したモビルスーツ感が出ます。

 

〔改造する〕

当時のガンプラは今ほどデザイン性に優れていませんでしたから、デザイン的に見た目が悪いところを独自に改造する人がいました。

例えば、ザクの両肩を斜めにカットして一部を削除してスマートな肩回りを再現するなど。

あとは、ガンダムの物語の中で存在していた試作用モビルスーツを、自分で製作してしまう。

これは、プラスチックの板や複数のガンプラの部品を使用して作製します。

 

実は僕も当時発売されていなかった「ジムキャノン」というモビルスーツを製作しようとしたことがありました。

 

その理由は、近所にあったデパートのおもちゃ売り場でガンプラ作りのコンテストが行われることになったので、それに参加するためです。

もちろん参加するのなら金賞(優勝)を目指そうと思いました。

それにはただ作って出品するだけではだめだと考えて、単品の作品ではなく「ジオラマ」にしようと思いました。

「ジオラマ」とは、ジャングルとか砂漠とか戦場でのモビルスーツ戦を再現しようとしたものです。

 

僕は物語中盤のジャブロー戦のジオラマを作ろうと決めました。

 

箱のような土台に紙粘土で岩の洞窟を再現しました。

モビルスーツは「シャアのズゴック」「アムロのガンダム」、「アッガイ?」と「ジムキャノン」だったと思います。

(だいぶ月日が流れたので記憶があいまいかもしれません?)

 

ただ、発売されていないジムキャノンの製作が上手くできれば優勝もいけるのではないかと考えました。

ジムキャノンは、ガンキャノンの量産型モビルスーツで、放映された物語のなかでは登場しませんでしたが、物語の裏側で本当はこんなモビルスーツ開発があったんだとか、こんなモビルスーツも存在していたんだという裏設定の中でのモビルスーツです。

 

よってこのジムキャノンの完成度が優勝の行方を決めると思い製作に熱が入りました。

しかし、熱が入り過ぎたからか、ジムキャノンの足にパテをたくさん使用してジムキャノンの太い足を再現しようとしたところパテの乾きが遅く、出品期限までに上手く仕上げることが出来ませんでした。

 

ジムキャノンというモビルスーツはガンキャノンの量産型で、右肩のみにキャノン砲を搭載したモビルスーツです。

「ジム」というガンダムの量産型モビルスーツを土台にしたようなモビルスーツです。

 



 ですから「ジムキャノン」を製作するにあたって「ジム」と「ガンキャノン」のガンプラを購入してジムを基本にして一部ガンキャノンの部品を使用するかたちで作製しました。

 

当時の中学生でこんなことをする人は珍しかったと思います。

実際、出品された作品のほとんどは改造したものは無かったと記憶しています。

 

ジオラマという舞台を作り、四体のモビルスーツを投入しての渾身の力作となるはずでしたが、想像していたものを作るには、当時の僕の技術がまだ追い付いていなかったようでした。

なので、自信をもって出品したというより、不満足だけど「ジムキャノン」の製作というチャレンジをしたことで良しとする、という感じでした。

 

結果は銀賞だったと記憶しています。

(金賞が欲しかったな~!)

金賞を取ったのは、1/60サイズのガンダムを出品した方でした。

僕のジオラマは1/144サイズのガンプラで構成されていました。

ですからジムキャノンが完璧に出来上がっていればと悔しい気持ちもありました。

それでも、同級生たちからは、僕のガンプラ作りが称賛されたので気持ちは晴れました。

 

僕の中では1/60サイズのガンプラなんか塗装するのは簡単じゃないかと思ったりしました。

なぜなら1/60サイズだと値段が高いので部品数が多く部品ごとに色分けされてしるので、塗装しやすいのです。

それに比べて1/144サイズのガンプラはいまでは考えなれないほど各部がくっ付いていて、なおかつ小さいので塗装するのが繊細な技術が必要とされるからです。

 

でも、結果は結果と受け取り、完璧なジムキャノンが出来上がらなかったのも事実なので、仕方がないと思いました。

 

そのコンテストで賞を取った僕はその後、増々ガンプラ作りにのめり込んで行きました。

 

しかし、当時部活(バレーボール部)もやっていたのに、ガンプラ作りの時間ってあったのかな~? と、いま思うと考えます。

 

今更ながら言うと、ガンプラ作りをしていたその時間を勉強に当てていれば、もっと成績が良くなり、一段上の学校に行けたかもしれないなと思います。

 

だけど、都会とは言えない田舎の町で、しかも母子家庭で育った僕が、自分の手先が器用なんだと発見したことは、自分への自信へと繋がったと思います。

 

実は、後に父親となった僕は、息子が小学生のころにガンプラを作ってやりました。

それが出来たのも中学生のころに腕を磨いたからだと思います。

 

時間があればまたガンプラを作ってみたいと思っています。

(実はいくつかガンプラを既に購入済みです。)

しかし、問題は時間が取れないこと。

 

お読みくださり、誠にありがとうございました。

 


『ガンプラに夢中(2)』


まずは(1)をご覧ください

 今回もガンプラ(ガンダムのプラモデル)」に夢中になっていたころの思い出を語っていきたいと思います。

 

 僕らが中学生のころにガンプラ(ガンダムのプラモデル)が流行っていて、ガンプラを購入するのが大変だったという話を前回しました。

 

 それでも地元のおもちゃ屋のF店のおじさんのおかげで、なんとかガンプラのシリーズを購入していきましたが、当時のプラモデルには現代と大きな違いがありました

それはプラモデル商品そのものに大きな違いがあるということです。

現代のガンプラは、そのモビルスーツのカラーごとに部品が色付けしてあり、さらに接着剤を使う必要がなく、設計図通りに組み立てていけば短時間で完成してしまいます。

 

僕らが中学生の頃のガンプラは、例えばアムロのガンダムなんて真っ白のプラスチックの部品で構成されていて、単純にそのまま接着剤で組み立ててしまうと、アニメのガンダムとは程遠い出来栄えになってしまいます。

作業としては簡単になりますが、出来栄えとしてはまったく感動のない作品に仕上がります。

それをさけて作製した満足感を得るには、避けて通れないことがありました。

それは塗装です。

 

現代のガンプラ作りは上手い人と下手な人の差があまり出ないようにプラモデル製品自体が進化しているのです。

僕らの子供の頃のプラモデルは、上手か下手かということが一目瞭然となってしまうのです。

ですから当時のプラモデル作りには欠かすことの出来ない技術が必要でした。

当時のプラモデル作りで上手に作る人と下手な人の違いは大きく言うと二つです。

 

当時のプラモデル製品は接着剤を使用しますから、いかに接着剤をはみ出さずに部品を組み立てるかという技術が大切でした。

接着剤はプラモデル製品のなかに付属として小さなものが付いているのですが、僕はそれを一度も使ったことはありません。

その理由は、扱いづらいからです。

 

ですから、プラモデル製品専用の接着剤を購入して作製していました。

それには筆がついていますから、必要以上の接着剤を接着面につけなくても組み立てることが出来るのです。

もうひとつ重要なのが、塗料で塗装することです。

当時のガンプラ作りにおいて上手と下手を分けるのはほとんどこの塗装の工程が上手くいくかどうかにかかっていました。

まっ、はっきり言うとこれは手先の器用さがものを言うので下手な人は下手です。

(もちろん努力すれば上手くなります)

 

僕はありがたいことに手先は器用だったようで、色の違う部分を器用に塗り分けて塗装することが出来ました。

僕が上手く塗装できることを知った中学の同級生から「グフ」を作製してほしいとの要請があり、友人に変わって作製したことがありました。

もちろんその友人は満足してくれました。

 

当時の1/144サイズのガンプラの部品は少なくて、色別にパーツが分かれていないために、違う色の境目をきれいにはみ出さずに塗装する必要があったのです。

 

ジオン軍のモビルスーツは割と特徴的な色が大きく割合をしめていて、その他に補完する色が少しあるくらいなのでそれほど難しくないのですが、主役のガンダムは複数のカラーを使用するため色塗りの技術がしっかりしていないと完成したプラモデルが残念なことになりかねないのです。

 

こんな苦労は今のガンプラには無用になりつつあるのでしょうが、当時はとにかく上手にプラモデルを作るのが大変だったのです。

だけどです。

だからこそ、作業に困難が伴うからこそ愛着がわくのがプラモデルではないでしょうか?

 

なぜならプラモデルという商品は、未完成品として販売しているのですから。

購入者が作成して初めて完成する商品であり、自らの手で作製するという楽しみを味わう商品なのですから。

 

ですから、苦労してプラモデル作りをした自分としてはあまり簡単に(塗装もしないで)出来上がってしまうプラモデルは、逆に楽しみが半減しているのではないかという気がします。

苦労して完成させたからこそ愛着もわくのではないでしょうか。

この辺に関しては難しい問題がありますね。

 

当時はガンプラの種類もそれほど多くはありませんでしたが、今ではガンダムシリーズが複数存在して一つの作品にさらに複数のモビルスーツが登場しますから、ガンプラをたくさん購入して欲しい玩具メーカーとしては、作製自体に時間がかかり過ぎては顧客がたくさん買ってくれませんし、いまの若者が僕らの頃の苦労の多いプラモデルを作製しようとするかは大いに疑問です。

 

それと当時からありましたが、きれいに塗装するためにスプレー式のピースコンというものがあります。

それを使用すると筆塗りではありえないほどのきめ細かさで塗装できます。

当時、ガンプラ作りにのめりこんだ僕はピースコンも購入して塗装していました。

基本は筆で塗っていましたが。

 

ですから僕らが子供の頃のガンプラ作りには、

プラモデル専用の接着剤

そのモビルスーツ用のカラーと同じ塗料

(これはそれぞれのモビルスーツによってカラーが違いますから、モビルスーツごとに違った塗料を購入するか用意する必要がありました)

塗装するための筆

(筆は最低でも三本は必要。広い面を塗るもの、細部を塗る細い筆とその中間くらいの筆と)

紙やすり

(紙やすりは接着した接着面を平らにするために使用します)

新聞紙

(新聞紙は塗装したり部品を削ったりするときに床を汚さないために下に敷くもので、必ず必要です)

水の入ったバケツ

(水が入っていればバケツでなくてもいいのですが、塗料は基本水性塗料を使用します。ですから違う色を塗るごとに筆をきれいに水洗いする必要があるのです。この筆の水洗いがいい加減だと前に塗ったカラーが残ったまま違う塗料と混ざってしまって塗装に失敗します)

それとよりリアルに作製しようとするとパテというものを使用します。

(パテは接着剤で部品と部品を接着した後のラインを消すときに使用したりします。つまりよりリアル感をだすために組み立てた形跡である部品の接着ラインを消し込むのです)

 

やはりよりリアルで綺麗な作品に仕上げるためには、大工さんと同じように道具が大切です。

良い作品に仕上げるためには道具にも凝らなければなりません。

 

当時のプラモデル作りは、プラモデル本体を購入し、作製に必要な道具を揃え、時間をかけて作り上げていくのです。

ですから愛着がわきますよね。

手間と時間をかけた自分だけのプラモデルは世界に一つだけのオリジナルです。

玩具なのですが、完成したときはなんだか大仕事をしたような高揚感があったものです。

当然、自分の部屋に飾って出来栄えを眺めたくなりますよね。

 
続きはこちら(3)

 

 

お読みくださり、誠にありがとうございました。




『ガンプラに夢中(1)』

 

 今回はガンプラ(ガンダムのプラモデル)」に夢中になっていたころの思い出を語っていきたいと思います。

 

 いまだに続くガンダムシリーズと並行して、ガンダムのプラモデル、通称ガンプラもずっと僕らの心を捉えたものの一つです。

 

 僕らが中学生になる頃には、「機動戦士ガンダム」というアニメが大人気となってきていました。

それに目を付けたおもちゃ会社(当時はバンダイ)はガンダムのプラモデルを発売します。

それはたしかガンダムの放映に沿って新しいプラモデルを発売していったような記憶がします。(この辺はうる覚えです。すみません)

 

当時、大がつくほど人気だったガンプラは入手困難になるほどでした。

いまだとちょっと考えられないですね。

いまはお台場のガンプラコーナーに行けばいろんなガンダムシリーズのプラモデルが入手できますから。

 

僕が子供時代を過ごした町は、茨城県のとある町で、それは比較的東京には近いところに位置していながら田舎といっても過言のないところでした。

 

僕らが中学生のころにようやく町の中心部にデパートのようなものが建ちました。

あとは専門の商品を売る商店街があるだけの町でした。

その町におもちゃ屋さんは二か所

ひとつはあまり仲の良くない同級生の実家。

ですから、僕は出来るだけ少し遠いおもちゃ屋さんを利用していました。

僕の住んでいたその町自体が大きな川に沿ってある町でしたが、そのおもちゃ屋さんはまさにその川沿いの土手の近くに位置していました。

 

その町をSと呼びます。

いまもそうだと思いますが、中学生となるとみんな自転車通学が許されるのです。

(逆に、ヘルメットをかぶって自転車を乗る中学生って田舎の象徴みたいな気がします)

ですから中学生は自転車を乗り回し町中を移動出来るのです。

徒歩でしか移動出来なかった小学生と違って、遥かに行動範囲が広まったのです。

 

僕の住む自宅からその土手沿いのおもちゃ屋さんに行くのに徒歩だとさすがにきついのですが、自転車なら行動範囲内。

 

僕はそのおもちゃ屋さん(F店)に入り浸り常連となっていきました。

そのF店は本当に小さなお店で、店主のおじさんが一人で商売しているような個人店です。

中学生の僕から見れば「おじさん」に見えましたが、当時のおじさんの年齢はもしかしたらいまの僕の年齢よりも下かもしれませんね。

(僕の記憶だとおじさんの前頭部の髪の毛が少し奥まっていたことがおじさんに見えた理由でしょうか)

 

お店の入り口を入ると「ピンポーン」と訪問者を知らせる音が鳴ります。

すると自宅兼用になっている奥からおじさんが姿を現すということになっています。

僕はお店に入るといつも即行ガンプラコーナーに駆け込みます。

(ガンプラコーナーといっても特設などではなく、ただガンプラが並べられている場所のこと)

目当ての商品があるかを確認します。

それが新発売だと、すぐに他の中学生たちに買われてしまうのです。

なにせ、田舎のおもちゃ屋ですから、入荷するにも数が限られてします。

ですから、新発売のその日に急いでお店に行ったはずなのに、新商品が手に入らないという事態がたびたび起こりました。

そうすると仕方がないので同級生のおじさんがやっている自宅に近いほうのおもちゃ屋さんに行ってみるのですが、だいたい状況は同じことがほとんどでした。

 

大人になってから考えたのですが、おそらくバンダイが制作販売するガンプラは、全国のガンプラを欲しい子供の数より、バンダイが生産し出荷する数量が追い付いていなかったのだと思います。それほど売れていたのです。

 

僕はいつもF店に行っていたので、お店のおじさんに顔を覚えられていました。

ですから僕が入店してガンプラを探し始めるとおじさんは「なにが欲しいの?」と聞いてきます。

僕が「○○」というと、お店の裏側からその商品を持ってきてくれるときもたまにありました。

常連ですから、欲しい目当ての商品が売り切れているとおじさんは「取っといてあげるよ」と言ってくれることもありました。

 

そうやって苦労しながらガンプラを入手しなければならなかったのです。

いまはネットでも買えるし、売り切れなどというのは考えならないでしょう。

それよりはガンダムシリーズが相当ありますから、ガンプラの種類も相当な数になっているはずです。

ですから古いシリーズ作品のガンプラだと手に入らないこともあるかもしれません。

感覚としてはそれが近いかもしれませんね。

 

ですがもう一つ現代と明らかに違う点があります。

それは僕らが中学生の頃のガンプラは安かったということです。

(いまは何千円もしますし、中には数万円するもののありますから)

それには理由があります。

当時のガンプラは子供向けの商品であり、販売しているバンダイからすれば購入対象者は子供だったのです。

子供ですから、そんなにお金は持っていません。

つまり子供のお小遣いで買えることが出来る。

そんな価格に設定されていたと思います。

実際ガンプラは1/144サイズのもの、1/100サイズのもの、1/60サイズのものとあって1/144サイズが一番小さくて金額も300円とか400円とかそのくらいだったと思います。

ですから、ガンプラの売れ筋(当時)は1/144だったはずです。

まだ作られたばかりの当時のガンプラはいまのそれと比較すると、こういってはなんですが、「ちゃっちー!」てな感じのものでした。

(バンダイさん、ごめんなさい)

 

なぜかというとガンプラの一番の売れ筋であるアムロのガンダムのプラモデルを塗装しないで組み立てると真っ白なんです。

それを考えると現代のガンプラがどれだけ進化しているか!

 

ですから、当時は塗装する必要があったのです。

すると塗装する塗料と使用する、それから接着剤などを購入しなければガンプラを作成できないのですから、当時の子供たちにとっては出費です。

ですからいろいろな種類のガンプラを購入するには1/144サイズの低価格でなければならなかったのです。

 

中には親からお小遣いを貰ったのか、親に買ってもらったのか、1/100サイズを購入する人もいました。

当時の僕らからすると1/100サイズは手の届きにくい高級品、1/60サイズはめったに購入できない高値の花でした。

1/60サイズのガンプラ。

あの頃の僕らにとっては、まさに喉から手が出るほど欲しい憧れのプラモデル。

やっぱりサイズが大きくなるにしたがって、部品数が多くなり、完成時のリアル感と存在感が出てきます。

お手頃な1/144サイズは部品数も少なく(当時)作業工程も少ないため、(だから簡単に作れる)中には物足りなさを感じる人も多かったでしょう。

でも、ガンプラ作りを通して「機動戦士ガンダム」の世界を自分で作り出している気分だったのでしょう。

自分の気に入ったモビルスーツを作成することで、現実には手に入らないモビルスーツを手に入れた気分を味わっていたのでしょう。

 

しかし、それにしてもガンプラに限らずプラモデルって不思議ですよね。

なにが不思議かって?

それは、なんでわざわざ未完成(部品だけの製品)のものにお金を出して購入し、自分で作成するんですかね!

普通、子供のおもちゃって完成されていますよね。

製造する玩具メーカーも完成品を出荷するほうが効率はいいのでは?

最近のガンプラなんて部品、部品、部品です。

これでもかっていうほど、モビルスーツが解体されて細かい部品となっています。

設計図なんていうのをつけることも玩具メーカーにとっては余計な仕事かも。

工場で完成品を作ってお店で売れば、設計図なんて考えなくても用意しなくてもいいのだから。

そう考えるとプラモデルってすごくメンドクサイですよね!

 

でも、ここが逆説です。

だからこそ、面白いのです。

完成品だと自分だけのおもちゃ(プラモデル)ではないですよね。

隣の誰ちゃんが持っているのとまったく同じもの。

でも、プラモデルは違います。

いわゆる世界で唯一の製品となります。

自分の手を通して、自分流の作り方をすることで唯一無二の存在となります

また、自分で作成した愛着もあります。

だって、小さいプラモデルでも何時間か何十分かの時間はかかるのですから。

 

大作のプラモデルだと、少しずつ完成されていく感覚がたまらないですよね。

これってもしかしたら男女で違いがあるかもしれませんね。

プラモデルを作成するのは大方男性ですよね。

男性の中に眠っている創造する喜びを満たしてくれるのがプラモデルなのかもしれませんね。

ガンプラだと現実には存在しないモビルスーツを手に入れたような感覚を味わえる。

そこに男のロマンがあるのかもしれませんね!

(もちろん女性でもガンプラやプラモデルを作るひともいます)

 

実は、僕は大人になって小学生くらいの息子を連れて、例のF店にガンプラを買いに行ったことがありました。

すでにその町を離れて暮らしている僕には、そのときF店がまだ営業しているのかわかりませんでした。

それでも行ってみると、F店はまだ当時と同じ場所にあって、中に入ってみると昔と変わらない雰囲気でした。

入店するとやっぱり奥からおじさんが出てきて僕ら親子がガンプラを探しているのをじっと見ています。

それも昔から変わりませんでした。

年月がたって、子供だった自分が父親となり、息子を連れてそのお店に来てガンプラを探すとは、中学生だった僕には想像もつかないことでした。

 

結局、ガンプラの楽しみとは創造の喜びなのですね。

 
続きはこちら(2)
続きはこちら(3)

 

お読みくださり、誠にありがとうございました。


『機動戦士ガンダムの魅力3』



まずは(1)をご覧ください
続けて(2)をご覧ください

 今回も「機動戦士ガンダム」の魅力の続きを迫ってみたいと思います。

 

 前回は「ニュータイプという憧れ」ということを語りました。

今回は「モビルスーツへの憧れと欲求」について語っていきたいと思います。

 

以前にも書きましたが、「機動戦士ガンダム」の画期的なところは、主人公が搭乗するマシンがロボットではなくて「モビルスーツ」と呼ばれているところです。

 

ロボットとモビルスーツとどう違うのかと言われれば、モビルスーツもロボットの一種であることには違いはないのですが、まずはモビルスーツという造語の発明です。

さらにアムロに代表するニュータイプが乗り込むことでその性能が一段と飛躍するところが、ワクワクするじゃないですか。

 

 主人公アムロ・レイが搭乗するのが試作機のガンダムで、まさにいまだに続くシリーズの言わずと知れた主役メカです。

ですから代々○○ガンダムとかガンダム○○とか言って、必ずガンダムの四字はつくのです。

このガンダムへの憧れこそ少年たちの心を捉えたところでもあります。

白を基調としたカラーベースに赤と青、黄色が絶妙に混ざったカラーリングも素敵です。

派手派手しくなく、しかし主役メカとしての主張はしっかりしている。

そして、ビームライフルという未来の兵器を使用し、登場時点でジオン軍のザクを凌ぐ攻撃力を見せつける。

いいじゃないですか~!

おまけにビームサーベルという剣に似た武器を背中に二つも装着していて、接近戦、またはビームライフルの燃料が尽きたときはこのビームサーベルを使用する。

さらに敵の攻撃を防ぐデザイン性に優れたを持つ。

極めつけは頭部にバルカン砲を装備しているところがナイスです。

 

あくまでも未来の兵器、現実の戦争を想像出来ないと世界観が崩れてしまします。

未来では開発されているであろうと思わせながらも、それが奇想天外な武器ではなく現実の戦争を想定したものである。

このへんのところがガンダムという物語の優れたところです。

背中にはバーニアが付いていて、地上ではジャンプしたりするときに使用して、宇宙にあがったときは大気圏外に適応できるようにカスタマイズする。

 

このガンダムというモビルスーツへの興味、憧れはいまだに少年たち青年たち、そして少年の心を持ったおじさんたちのハートをがっしりと掴んでいるのです。

 

はっきりと言ってしまうと、このガンダムが僕を含めたみんなが欲しいのです。

もし、ガンダムが手に入るのなら誰しもが手に入れたい

ガンダムのパイロットになってみたい

自分専用のガンダムを手に入れたいという欲求に駆られます。

 

こうした憧れと欲求を掻き立てるからこそ、いまだにシリーズが創作され続け、プラモデルなどの副産物が売られ続けているのです。

 

いまでは、シリーズがたくさんありますからガンダムと呼ばれているモビルスーツも数えきれないほど存在します。

ですから、個性に違いのある人たちの欲求を満足させる種類であふれています。

 

結局、「ガンダム」が欲しいのです。


 少年の心は叫びます。

ガンダムに搭乗して、自分もニュータイプへと覚醒してみたい。

シャアのようなライバルと熾烈なバトルを繰り返してみたい、と。

 

言ってしまえば、これがガンダムという物語が40年もの長きに渡ってヒットし続ける理由であります。

 

アムロは地球連邦軍に所属していますから、そのモビルスーツは地球連邦軍の開発したものです。

地球連邦軍のモビルスーツは同時に試作されたガンキャノンガンタンクがあります。

どちらもホワイトベースに収められていて、アムロの友人たちが操ります。

また、物語のなかでアムロがガンキャノンとガンタンクに搭乗するときもあって、それも見所のひとつです。

 

基本的にガンダム、ガンキャノン、ガンタンクは同時期に試作されたモビルスーツで、先行するジオン公国のモビルスーツ開発に追いつくために開発されたものです。

ガンダムは接近戦とある程度の遠距離でも戦闘できる機種で汎用機として造られています。

ガンキャノンは真っ赤なカラーリングが特徴で、両肩にキャノン砲を二門装備していて、中距離戦闘用、あるいはガンダムの支援機として造られています。

ガンタンクは大型のキャノン砲を二門装備していて、二足歩行するメカではなく戦車のようにキャタピラで移動します。

ですから、遠距離攻撃専用、または支援機としてのコンセプトをもって造られています。

 

ジオン公国の先行するモビルスーツ開発に巻返しを計ろうとして計画されたのがガンダム開発だったのです。

地球連邦軍のモビルスーツは後に、ガンダムの量産機である「ジム」と、丸い野球のボールのような形をした「ボール」という量産モビルスールが開発されます。

「ファーストガンダム」の物語(TV放映版)では、他にモビルスーツは登場しません。

ですから、アムロの白いガンダムは目立つのです。

その辺はやはりフィクションです。

 

ただ後々に制作されたスピンオフ作品などで違ったモビルスーツ(ガンダムなど)が存在していたということが明らかになっていました。

 

対するジオン軍のモビルスーツは、初めに登場するのが前回も話した「ザク」です。

ザクは全身薄緑色で量産機です。宇宙空間でも地球上でも戦闘出来る優れものです。

しかし、アムロのライバルであるシャアには専用機というのがあって、全身赤色でカラーリングされていて、頭部には隊長機を示す角のようなものがついています。

このシャア専用機とうのが、カッコイイじゃないですか!

 

機動戦士ガンダムのもう一人の主人公シャアのモビルスーツはいつも赤です。

シャアはザクの後に、ズゴック(水陸両用)、ゲルググ(宇宙用)、最後のジオング(ニュータイプ用)と戦況によって専用機を乗り換えます。

ジオングは未完成なので赤に塗装されないまま使用しています。

赤い彗星と呼ばれ、他にはない真っ赤なモビルスーツを乗りこなします。

このへんのところもカッコいいですよね。

アムロにない、センスの良いキャラクターとして設定されています。

シャアはサイド3のジオン公国の生みの親であるジオン・ダイクンの息子という出自ということが物語の進展によって徐々に明らかになっていきます。

ですからいいところのお坊ちゃまなのです。

 

話をモビルスーツに戻すと、アムロのガンダムに立ちふさがるようにジオン軍の新たなモビルスーツとモビルアーマーが登場します。

ザクの後に登場したのが、全身ブルーで塗装された「グフ」です。

ランバラルという歴戦の勇士が乗る機体として登場します。

ザクとは性能が格段にアップしていてアムロも苦戦します。

 

さらにホワイトベースは地球上で作戦行動をします。

そのホワイトベースの行く手を塞ごうとするのが「地上用のドム」です。

背中に長いビームサーベルを持ち、足と背中についたバーニアで地上を滑るように移動する機動力を持ちます。

 

さらに、海沿いに転戦すれば、水陸両用のモビルスーツが数種類も登場します。

「ズゴック」「アッガイ」「ゾック」などが次々に物語の中で出てくるたびに少年であった僕らは興奮したものです。

 

宇宙に飛び立ったホワイトベースのクルーに、ジオン軍の宇宙用のモビルスーツが襲い掛かります。

「ギャン」これはマクベ専用機です。

「宇宙用ドム」

そして宇宙の戦闘用に開発された「ゲルググ」

ゲルググに至ってようやくジオン軍はビームライフルの開発に成功します。

ララァの乗る「エルメス」など。

 

感動のアムロとシャアの最期の戦いでは、「ジオング」が登場します。

ジオングはニュータイプのシャアのために開発されたモビルスーツですが、開発が遅れて、アムロとの決戦のときに未完成であったものを、シャアがそのまま使用します。

ですから未完成のモビルスーツという登場の仕方も普通ではない設定です。

未完成ではあるがゆえに、シャアの赤色に塗装されていない。けれどその戦闘性はほぼ出来上がっていたので実際の戦闘には使用できるということでした。

 

このように地上用、水陸両用、宇宙用、個人専用とさまざまなモビルスーツが物語の展開に軸を合わせて登場するので、少年たちはワクワクしながら物語の世界に引き込まれます。

 

機動戦士ガンダムの魅力とは多種多用なモビルスーツの登場と核になる主人公の操るガンダムに対する憧れと可能ならば自分もモビルスーツに登場してみたいという欲求を生み出したことであります。

 

そのモビルスーツを手に入れたいという欲求が、「ガンプラ」と呼ばれるガンダムのプラモデルへと転化していくのです。

実際にガンダムは存在しない。

でも、ガンダムが欲しい。

その代わりにガンダムのプラモデルを作成して、ガンダムを手に入れたような感覚を味わう。

そんな図式です。

 

機動戦士ガンダムに出てくるモビルスーツはどれも未来の戦争で使用される兵器としてのリアリティーを含ませています。

 

リアルとフィクションの間の絶妙な世界感の創出こそ「機動戦士ガンダム」という作品の魅力です。

その世界観を作り出しているのが多種多様なモビルスーツなのです。

 

モビルスーツへの憧れ。

もっと言えば「ガンダム」への憧れが、すでにおじさんと呼ばれる僕の心をいまだに話してはくれません。

 

モビルスーツ、いつ開発されるのかな?

(なんて!)

 

 

お読みくださり、誠にありがとうございました。


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